カトリック神田教会

St. FRANCIS XAVIER CHURCH

ステンドグラス 第13窓

第13窓
死者のよみがえりと、来世の生命とを待ち望む。

この窓は父である神と子と聖霊、また世界の最後に起こる死者の復活と永遠の命によって現わされるその創造的・救世的・神的力に対する信仰を表現している。
「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ロマ8 章11 節)。
「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、[. . . ]。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(コリ15 章17 – 20 節)。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じるものは死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハ11 章25 – 2 6 節)。

1 ・2 、殉教のシンボルである勝利のヤシと復活による無罪をたとえるユリ。
3 、仔羊と十四万四千人の者。
緑色の山はシオンの山と、そこで仔羊が自分の群れを導いている緑の野原のシンボルである。白と金色の服を着て並んでいる聖人の列は苦難を象徴しているヤシを手にしている。仔羊は赤い円光に取り巻かれ、受難と勝利を象徴している赤・金の光環に囲まれている。この場面は復活した教会の神聖のシンボルである。教会はキリストに対する誠実によって童貞である。「見よ、子羊がシオンの山に立っており、子羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には子羊の名と、子羊の父の名とが記されていた。」(黙14 章1 節)。
ステンドグラスの下の部分には暗い半円の中で閉じ込められた蛇が見える。それは死とサタンに対する勝利を象徴している。「わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖を手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ[. . . 」底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、[. . . 」もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。」(黙20 章1 – 3 節)。
4 、復活した骨の谷。
それはエゼキエルの幻を絵画的に表現した場面である。「主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。我が民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れていく。」(エゼキエル37 章12 節)。 ステンドグラスの下の部分には半円で収めている頭蓋骨は墓のシンボルである。両側にある濃い緑色の山は、太陽に向かって浮き上がる風のような金色の姿が見える薄い緑色の谷を見せている。その太陽はキリストのシンボルで、浮き上がる姿は「生きている骨」、つまり復活した共同体を象徴している。
5 、ラザロの生き返り。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じるものは死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハ11 章25 – 26 節)。
この場面は、ユダヤ式の墓の入口を象徴している岩の隙間の中で立っているキリストを現わしている。キリストは布で巻かれたラザロを手で呼んでいるように見える。「[イエスは]『 ラザロ、出てきなさい』 と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。」(ヨハ11 章43 – 44 節)。
6 、復活したキリストとトマス使徒。
「トマスは言った『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』[. . . 」イエスが来て[. . . 」トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じないものではなく、信じる者になりなさい。』 」(ヨハ20 章24 – 27 節)。この動的な場面は信仰から流れてきている喜びを表しており、我々皆の信仰官言である。「肉の創造者である神を信じる。肉を救うために肉に変容された言葉を信じる。肉の創造と救済を満たす肉の復活を信じる。」(「カトリック教会教理問答書」、1015 項)

窓の配置

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本日の福音

  • 2018.10.17 聖イグナチオ(アンチオケ)司教殉教者

     [そのとき、イエスは言われた。]「あなたたちファリサイ派の人々は上幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。 あなたたちファリサイ派の人々は上幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。 あなたたちは上幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。《そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります《と言った。イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も上幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。《(ルカ11・42*46)

     

    2018.10.18 聖ルカ福音記者

     [そのとき、] 主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。 財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。 どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。《(ルカ10・1*9)

  • 聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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