カトリック神田教会

St. FRANCIS XAVIER CHURCH

ステンドグラス 第14窓

第14窓
永遠のいのちを信じる。アーメン。

この窓は、救われる我々を待っている父と子と聖霊と共に生きることへの信仰を絵画的に描いているものである。このステンドグラスが表現しているのは次のものである。

最後の晩餐。自分を食べさせるキリスト、つまり今この世で永遠の命のきざし。

来たるべき花婿であるキリストを待ち続けている花嫁、つまり教会のこと。

取り戻された楽園、つまり人々と三位一体との共存のシンボル。

1 ・2 、孔雀と、幸福のシンボルであるザクロ。
3 ・4 、エゼキエルが予言している新しい命を象徴している緑の山。
荒れ果てていたこの土地がエデンの園のようになった。J (エゼキエル36 章35 節)。両方のステンドグラスの下の部分には平和で生きている動物たちが見える。「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、[. . . ]わたしの聖なる山のどこにおいても、害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。」(イザ65 章25 節)。両方の場面に見える緑色の山は、三位一体の出迎えに、また天使たちが持ち上げているテーブルで用意されている婚宴のために踊って走っていく聖人や天使たちの青・白・合色の行列に囲まれている。その踊りの気持ちになってよく見ると、走ってくる者を歓迎している聖母マリアの姿を見つけることができる。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。[. . . ]わたしはエルサレムを喜び踊るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとして、わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響く事がない。」(イザ65 章17 – 19 節)。予言されている天国の宴、つまりメシアの婚宴は新しいワインで満たされている光の杯が置いてあるテーブルで表現さている。「わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。子羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。[. . . ]子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いである。」(黙19 章7 – 9 節)。「東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。」(マタ8章11 節)。「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし[. . . ]」(イザ25 章6 – 8 節)。すべての国民や民族は三位一体の栄光をじかに見る。
5 、教会を象徴している花嫁は、神を待っている人間の心に喩えられている雅歌の花嫁でもある。
「《霊》 と花嫁とが言う。『来てください。』これを聞く者も言うがよい、『 来てください』 と。[. . . ]主イエスよ、来てください。」(默22 章17 、20 節)。「恋しい人の声が聞こえます。山を越え、丘を飛んでやって来ます。若い雄鹿のようです。」(雅2 章8 – 9 節)。走っている力強いキリストの姿は、地に戻るキリストのシンボルである太陽を背景にして現わしてある。曲がりくねる細長い模様は神へ導く人の道を象徴している。
6 、メシヤの婚宴を予知する最後の晩餐。
使徒たちの伸ばしている手と漁夫たちの強そうな手は望みや願いのシンボルである。テーブルの周りに目立っているのはヨハネとユダの姿である。跳いているヨハネはイエスに対する尊敬や親しみを表している。逃げているユダは象徴的な夜の暗みに落ちていく。「『 苦しみを受ける前に、あなた方と共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。』そして、イエスは杯を取り上げ、[. . . ]『 神の国が来るまで、わたしは今後ブドウの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。』 」(ルカ22 章15 – 18 節)。

窓の配置

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本日の福音

  • 2018.08.22 天の元后聖マリア

     [そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。]「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。

      そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 それで、受け取ると、主人に上平を言った。 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに上当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。《(マタイ20・1*16)

  • 聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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