カトリック神田教会130年の歩み


詳細年表

歴代主任司祭


現在の神田教会聖堂


1.明治の再宣教の出発点となった教会

    200年以上も鎖国政策を続けた江戸幕府、そして開国後に成立した明治政府は、 いずれもキリスト教を厳しく禁じましたが、1873年(明治6年)2月24日に禁教の高札を撤去してから、 次第に取締りを緩和しました。

  しかしパリ外国宣教会の司祭たちは、巧みに宣教活動を開始しており、1872年(明治5年)には 三番町に外国語を教授する名目で「ラテン学校」を作り、英語・フランス語・ドイツ語の他、ラテン語を教えました。

 ラテン学校は、開校以来学生の数が増えたので、1874年(明治7年)1月に三つの旗本屋敷(約3000坪) をフランス公使ベルトミー氏の斡旋により入手し、神田の猿楽町に移転しました。そして、 その新しい場所において聖フランシスコ・ザビエルを保護の聖人とする聖堂を持ちました。

    この聖堂こそ、東京教区の歴史においては、禁教の高札が撤去されてから最初に建てられ、日本人に宣教するために開かれた聖堂の第一号で、聖フランシスコ・ザビエルに捧げられました。神田教会の発祥です。

  この聖堂に続いて、それまで外国人居留地の中にあり稲荷橋のたもとにあった商家を仮聖堂としていた築地教会が外国人居留地を出て、現在の明石町に移転し、1874年(明治7年)11月に聖ヨゼフに捧げられた教会として献堂ミサを行いました。このように神田教会と築地教会はほぼ時を同じくして創設されたのです。


2.最初の司教様と神田教会

  1877年(明治10年)8月にはラテン学校は閉鎖され、神田教会の初代主任司祭としてペティエ師が任命されました。

    この1877年、当時の東京の教会があった北緯代牧区に司教座が誕生しました。初代教区長となったオズーフ司教様は、同年7月2日、日本に到着し、7月8日、横浜天主堂において着座式を行ない東京に赴きました。

    オズーフ司教様は早速、それまでの築地教会の北東隣に約96坪の司教座聖堂(1878年(明治11年)8月15日、完成)を作ることを計画されました。その間、神田教会を仮司教座聖堂とされました。

    1891年(明治24年)6月15日に東京大司教区が設立され、オズーフ司教様は大司教に就任されました。








                         


3.白百合学園・暁星学園と神田教会

    神田教会の歴史において忘れてはならないことがあります。1881年(明治14年)にはシャルトルの聖パウロ修道女会が、この神田教会の敷地内に招聘され後年白百合学園となる学校事業(施療院・孤児院・小学校)を開始しました。

    また1888年(明治21年)1月には、ヘンリック師を長とする5名のマリア会員が神田教会に居住し、日本語の学習を始め、同時に塾を開き教育修道会としての活動を開始しました。これが後の暁星学園です。

    暁星学園・白百合学園は現在でも隣同士と言えるほど近いところでミッションスクールとして活躍していますが、その二つともがこの神田教会を揺籃の地として出発したのです。



4.神田教会の聖堂:明治・大正・昭和の三つの聖堂物語

    神田教会では、第3代主任司祭パピーノ師が設計された本格的なゴシック式聖堂が、1896年(明治29年)10月28日に完成しました。この聖堂は126坪ありました。神田教会の活動は、この聖堂の完成とともに、さらなる発展へと向かってゆきました。

    1899年(明治32年)9月10日に関口台町の聖母仏語学校の敷地内に関口教会聖堂が完成し、いわゆる東京六教会(築地、神田、浅草、本所、麻布、関口)の陣容が整い、各小教区がもっと協力しあうことが可能な時代が始まりました。

    1905年(明治38年)には第6代主任司祭としてシェレル師が着任し、同師は1938年(昭和13年)まで33年間にわたり神田教会を司牧を担当されました。このシェレル師の業績の一つとして、以下のことがあります。

    パピーノ師が設計されたゴシック式の新聖堂は、写真のように立派な聖堂でしたが、残念ながら1913年(大正2年)2月20日の神田一帯の大火により焼失してしまいました。

    神田教会の聖堂が火事と地震という災難を経験したことから、 シェレル師はじっくりと計画を練り、火事・地震の両方に強い建築を目指し、鉄骨・鉄筋のコンクリートという、当時の日本には新しい建築方法を採用しました。


          
明治時代の神田教会聖堂

    設計はスイス人建築家マックス・ヒンデル氏(上智大学1号館、宇都宮の松が峰教会の設計者)が行い、宮内初太郎氏が棟梁として新聖堂の施工にあたりました。

    この聖堂は1928年(昭和3年)12月9日に献堂式が行なわれました。同月4日にはS.カンドウ、岩下壮一両師の記念講演会が行われました。



    現在まで残るこの聖堂は、ゴシック様式ではなく、昭和という新しい時代に向かってゆく教会の姿勢を考慮したのでしょうか、ルネッサンス・ロマネスク様式(古いロマネスク様式ではなく、ゴシック時代からルネッサンスを経て再び神様と人間の親しさを現わそうとしたルネッサンスの精神により刷新されたロマネスク様式)により建てられています。その後一部増築が行われ、現在の聖堂の規模は延坪212坪(701u)です。



大正時代の神田教会聖堂

    このようにシェレル師は明治・大正・昭和の三つの聖堂に関わり、二度にわたる災難にあっても不屈の精神をもって、百年の後にも残る聖堂を目指して、当時30万円(現在では30億円にも相当する金額)をもってこの聖堂を建設したのです。









昭和初期の神田教会聖堂


5.神田教会と司教座聖堂

    1918年(大正7年)1月2日に第4代教区長レイ大司教様は、関口教会へ司教座聖堂を移転なさり、関口カテドラル時代が始まりました。この関口のカテドラルは、荘厳なゴシック様式の大聖堂でしたが、惜しくも1945年(昭和20年)5月26日の空襲により焼失してしまいました。


    住宅密集地に建つ神田教会は同じく1945年(昭和20年)4月13日と20日の二回にわたる空襲に遭いましたが、同じ敷地内に建っていた司祭館やその他の建物が焼け落ちたにもかかわらず、聖堂のガラス数枚が炎によって破られるほどの火の海に囲まれながらもその度に風向きが変わり、ついにほとんど無傷で焼け残ることが出来ました。これも神様のご加護とシェレル師の悲願が、この聖堂を守り通したのではないでしょうか。


    戦後の時代となり、諸教会も復興したり、新しい教会も増えて行きましたが、それらの教会の建設のためカテドラルの再建は後回しになっておりました。






    関口教会の聖堂は児童館を改装した小さな規模の聖堂でしたので、当時の土井大司教様は麹町教会の新聖堂を使用して、司教としての典礼を行なっておりましたが、1952年(昭和27年)7月、神田教会をプロカテドラル(仮司教座聖堂)として用いられるということを決意なさいました。

    こうして昭和39年(1964年)12月8日に 現在の無原罪の聖マリア東京カテドラル大聖堂が献堂式を迎えるまで神田教会の聖堂が東京教区の母教会、 カテドラルとして用いられたのです。神田教会は明治と昭和の二度にわたりカテドラルの役割を勤めた教会です。

    神田教会には第六代 東京教区長 土井辰雄枢機卿様の司教座が保存されて います。それは東京の教会を導く重責を担われた歴代の司教様方への感謝の祈りを忘れぬためであり、またこの教会、この司教座の前で司祭となった方々の ために祈り、さらにはこの教会がカテドラルであった時の使命と精神を忘れず 他の教会のために母なる心をもって配慮を怠らぬ教会として活動してゆくためです。 それゆえ、聖母マリアのご保護と取り次ぎを願い、左脇祭壇の前、聖母のご像のもとにこの司教座を保管・展示しております。

    第6代東京教区長
  枢機卿土井辰雄大司教
     (1937−1970)


6.邦人司祭の誕生

    1938年(昭和13年)33年間司牧を担当したシェレル師が、保土ヶ谷教会に異動になり、後任として初めて邦人司祭であるパウロ内野作蔵師(1938.1〜1940.10)が第7代主任司祭として着任しました。内野師は1921年(大正10年)6月45歳で司祭となられ、前橋を中心に群馬県下で布教に従事された後、神田教会に来られました。特に男子青年会の育成に努めました。その後浦和教区長になられました。

    次いで、第8代主任司祭としてアントニオ下山正義師(1940.10〜1942.1)、第9代主任司祭としてフランシスコ・ザビエル志村辰弥師(1942.1〜1944.6)が司牧を担当されました。しかし戦時の統制が強く、教会活動は抑制され、神田教会は長い冬の時代を迎えました。




7.在任最長記録を持つ主任司祭 - シプリアーノ佐藤光幸師

    1944年(昭和19年)から第10代主任司祭として佐藤光幸師が赴任されました。同師は平成元年(1989年)まで45年間、司牧を担当されました。

    佐藤師は音楽的才能に恵まれ、オルガニスト、カントーレとして活躍され、またコーラスの指導に力を入れ、伝統的な聖歌を四部合唱曲に生まれ変わらせたりしました。彼の作品は、叙階25周年記念の際に出版した「Laudate Domino」という本にまとめられています。

    佐藤師の在任期間にあった出来事として、1949年(昭和24年)6月18日に神田教会に聖フランシスコ・ザビエルの聖腕が安置され、盛儀を捧げたことがあります。この年はザビエルの来日400年にあたる記念の年であり、日本の教会、社会を挙げて盛大な祝典が行われました。

    1974年(昭和49年)には創立100周年を記念して、新しい信徒会館が完成しました。この信徒会館は、村上富美子さんが、妹マリア・ソフィア赤倉光さんの遺言により、神田教会に寄付をされたことが契機となり100周年記念事業として、資金の募集が始められたものです。この会館は大切に扱われ、今も立派に使われています。

    佐藤師から始まった一つの活動は、今も神田教会に続いています。1970年代の初め、日本の司教団はローマに対して一つの許可を求めました。それは予備的宣教の一つとして洗礼を受けていない人たちの結婚式を行うことでした。

 ●    もちろん、結婚講座などを通して彼らの結婚・人生に少しでもキリストの福音を学ぶ機会として、教会に近づく機会となることを目指しました。

 

        第10代主任司祭
      シプリアーノ佐藤光幸神父
       (1944.6-1989.5)




佐藤師は、このことに熱心に取り組まれました。伝統ある教会らしい建物、時を重ね祈りによって磨き上げられた荘厳な雰囲気に参加の多くの人々が惹きつけられ、聖堂に入った人々からは賛嘆の声が聞かれます。このように結婚式は、福音宣教の大きな役割を果たしています。





















 創立100周年記念に新たに完成した信徒会館
    (1974年4月14日竣工)



8.P.アントニオ泉富士男師とミカエル酒井俊男師による司牧

   1989年(平成元年)、第11代主任司祭としてP.アントニオ泉富士男師(1989.5-1997.4)が着任しました。泉師は、信徒の練成に心を砕かれ、一人一役による教会活動への参加、年一度の信徒研修会の活動などを熱心に指導されました。

    また聖堂正面および両側・後ろ側の窓にステンドグラスを入れました。前者は日本人の細川晴美氏の作品、後者はポーランドのマリア・テレサ・レクレフスカ女史の作品です。

    そして1995年(平成7年)には阪神淡路大震災がありましたが、神田教会も耐震・補強工事を行いました。




第11代主任司祭
P.アントニオ泉富士男神父
(1989.5−1997.4)






    1997年(平成9年)、第12代主任司祭としてミカエル酒井俊男師(1997.4-2000.4)が着任されました。

    酒井師は持ち前の穏やかな温かさで宣教司牧をされ、また聖堂保存に心を砕かれました。さらに、東京教区では小教区の統廃合の動きが出てきました。

    1999年(平成11年)5月23日(日)の聖霊降臨の大祝日には、神田教会創立125周年を祝いました。

    また同年秋には、酒井師の司祭叙階25周年の銀祝のお祝いを行いました。

第12代主任司祭
ミカエル酒井俊男神父
(1997.4-2000.4)







9.バルトロメオ稲川保明師の着任と聖ザビエル遺骨の安置

    2000年(平成12年)4月第13代主任司祭としてバルトロメオ稲川保明師(2000.4- )が着任しました。

    稲川師は、着任後すぐに教会施設の改装・補修を行い、伝統ある教会聖堂の整備に心を尽くされました。また神田教会の記念となる以下の数々の仕事をされました。

    大聖年である2000年12月3日(日)、神田教会の保護の聖人である聖フランシスコ・ザビエルの聖遺骨が、白柳誠一枢機卿様の手により安置されました。日本全国には聖ザビエルの名前を戴く小教区教会が33ありますが、そのうち山口のザビエル記念聖堂、鹿児島のザビエル教会には聖遺骨が安置されており、神田教会は3番目になります。

    また神田教会がカテドラルであった時の使命と精神を忘れないように、左脇祭壇の前、聖母のご像のもとに第6代東京教区長土井辰雄枢機卿様の司教座を保管・展示することにしました。

    2001年(平成13年) 2月11日には稲川師の司祭叙階20周年のお祝い会が開かれました。同時に神田教会のホームページ(HP) の完成が披露されました。このHPは年に約3万件のアクセスがあります。

    2001年(平成13年)12月に神田教会聖堂が、わが国の登録有 形文化財に指定されました。明治期から何度か建て替えられた後、1928年(昭和3年)に竣工した現在の聖堂は、 戦争の大空襲にも耐え抜き、東京教区の伝統ある教会聖堂として、また宣教司牧の象徴として今も生き続けています。

    また、一般の方への結婚式を通した予備的宣教や、 ホームページの開設等により、新しい宣教司牧の工夫も行い、ミサへの参加者や受洗者も増えています。


   第13代主任司祭
   バルトロメオ稲川保明神父
   (2000.4-)


2002年(平成14年)7月には中庭にマドンニーナが設置され、8月15日の聖母被昇天の祝日には、「中国・上川島での臨終のザビエルの絵」が安置・祝別されました。また同年8月には、信徒会館の内装・設備の改修を終えました。



聖フランシスコ・ザビエルの聖遺骨



10.神田教会の新たな出発

    2000年9月3日に、新たな東京大司教として岡田武夫大司教様の着座式が行われました。その後、岡田大司教様は東京教区の小教区再編成に力を注がれ、その動きが活発になりました。

    2003年4月、神田教会は大島教会・麹町教会・築地教会と一緒に新たに「中央・千代田宣教協力体」を構成し、協力して活動を行うことになりました。この宣教協力体の世話人司祭は稲川師で、2ヶ月に一度持ちまわりで会合を持っています。

    稲川師は、2004年4月より築地教会の主任司祭を兼任されています。築地教会は神田教会と同じように東京の最古の教会です。伝統がある教会であると同時に、今後も東京教区の宣教の拠点としての役割が求められています。

    神田教会と築地教会は、今後特に連携・協力して、都心にある教会としての福音宣教司牧の使命を果たして行きます。



神田教会の略史