
田中隆弘神父様のお話
聖霊降臨の主日
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使徒たちの宣教 『聖霊が下る』 (使徒言行録 2・1-11) 5月11日第一朗読
五旬祭(ごじゅんさい)の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業(わざ)を語っているのを聞こうとは。」
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『霊の実と肉の業』 (使徒パウロのガラテヤの教会への手紙 5・16−25 )
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊が対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法のもとにはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスの者となった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
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「聖霊降臨の主日」に際して |
2年前の5月の連休の時でしたが、新宿に買い物に行きました。高島屋のエレベーターに乗ると下の階から先に乗っていた人たちのうちの2人が背後で話しをしているのが聞え、相手の人に、次の買い物に呉服をしたいのだけれども、ここにはあるだろうか?とたずねていました。
「高島屋」は三越と並ぶ百貨店の老舗で、前身は「高島屋呉服店」の関西系百貨店です。そのデパートに「呉服はあるだろうか?」はないだろうと思い、連休中に地方から出てきた人達?とつい思っていると、その2人が目的の階についたので降りる時、関西弁で声をかけて出ようとした時、エレベーターの残った人たちが一斉に気づいたのです。
「中村玉緒さん」だと…。
ところで、「エレベーターのなかでの会話」は普通まず口をつぐむ傾向があります。それは、第三者が加わると、そのエレベーターのなかが「私的空間」ではなく「公共の場」にかわるからです。ですから、私的な性質のものを第三者に聞かせることをためらう、不快の念を抱かせることをためらい沈黙するのです。
(→1986年は8割、2002年は半数が沈黙を守った、というデーターがあり、最近は私物化する人、利己的な人が増加しているようです。)(中村玉緒さんの短い会話は「遠慮」だったのでしょう)
「ガラテヤの教会への手紙」のなかで、聖パウロは聖霊の働きに反するものとして「利己心」をあげていますが、この「利己心」(→自分の利害だけを念頭において、他人の迷惑を考えようとしない心)が「公共の場」を「私的空間」に身勝手に変えてしまうのです。それは、宗教的に考えれば「わたしたちの世界」を「わたしの世界」にしてしまう、神の愛、父の家を自分の家にしてしまう、「神を、神の世界を」を「私的世界」にしてしまう行為と言ってもよいのではないでしょうか。
「使途言行録」のなかで、「自分の故郷の言葉で神の偉大な業を語っているのを」「驚き、怪しんだ」とあります。ヘブライ人はヘブライ語こそが天上の神の言葉と当時まじめに考えていたようで、その他を二流、三流と判断していたという当時の記述が残っています。(→ですから外国語の予言は二流、三流)
そこにも「神を、神の世界」を私物化、独占しようとする「利己的宗教心」をみることができるのかもしれません。
「聖霊降臨」弟子たちはマリアさまが聖霊にみたされたのと同様に、同じ聖霊にみたされます。聖霊にみたされて、「共に」「神の世界に」あることがわかる者、見える者
(→モーセに「くつをぬぐように」といった神の声、「あなたの立っている場所は聖なる土地だから」(出エジプト3・5)です。)
として生きることができますように。
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叙唱の味わい
聖霊降臨
聖なる父、全能永遠の神、偉大な救いのわざをたたえ、
感謝をささげます。
御ひとり子とともに神の国を継ぐ人々の上に、あなたは
きょう聖霊を注ぎ、過ぎ越しの神秘を完成してくださいました。
聖霊は教会の誕生の時に、ことばの違いを越えて諸国の
民にまことの神を知らせ、人々を一つの信仰のうちにお集
めになりました。
全世界は復活の喜びに満ち、すべての天使はあなたの栄
光をたたえ終わりなく歌います。
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*この叙唱は、集会祈願と同様に第一朗読の使途言行録2・1-11に沿って、聖霊降臨による教会の誕生の時を記念し、賛美と感謝をささげています。聖霊降臨が「過ぎ越しの神秘を完成」するように、きょうの主日で復活節の50日間が締めくくられます。
(2006・6・4聖書と典礼より)
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