聖書講座





田中隆弘神父様のお話

「復活の主日」 ミサ説教から  (2010年4月4日ミサ説教)

  朝起きるとしばらくしてから、ラジオを聴くことにしています。NHKAMの方のラジオを日課としていつも聴いて、一日をスタートしています。その日の天気、あるいは交通情報、そしてニュースを聴いて、一日を始めているわけです。今日も同じでした。今日の交通情報の中では、これから東名、中央高速が、夕方に混むでしょう。大和トンネルのあたり、あるいは中央高速でいうと小仏のトンネルのあたり、25キロぐらいの渋滞になる可能性がありますというような交通情報がラジオで流れていました。

 そんな交通情報を聞くたびに、そして中央高速の小仏峠のトンネルのあたりに、いつも渋滞することがあると、それがニュースで流れてきます。それをたまたま聞くたびに、私は自分がその峠のトンネルのところで交通事故に遭ったことを、いつも思い起こしています。前にもお話ししたことがあったと思いますけれども、それは神学校に入る直前のことでした。

夏の子供のキャンプが終わって、子供たちは電車に乗って帰って、そしてキャンプに使った道具をクルマに載せて、青年たちと三人で帰る時でした。運転をしている青年と、私は横で助手席に座っていたのですけれども、そのキャンプの疲れでしょうか、私はうとうととしていました。この峠のトンネルを過ぎると東京に入っていくわけですけれども、そのトンネルを出たところで風にあおられて、私はそこでようやく目覚めて、揺れたので目覚めたわけです。そうすると前のクルマにちょうどぶつかるところでした。「危ない」と言ったのを覚えていますが、次の瞬間にはもう私はクルマの中にはいませんでした。外に飛び出ていて、まわり中はクルマのガラスだらけのところに座っている状態でした。前の方を見ると、ぶつかったクルマが二台。自分が乗っていたクルマともう一つのクルマが50メートルぐらい先でしょうか、そこに止まっていました。

私はすぐに立ち上がって、走って行きました。今日のヨハネの福音書(ヨハネ2019)の二人の弟子のように。*1 いったいどうなっているのか、そのことが心配で、私はそのクルマを目掛けて走っていったのを覚えています。そしてその二台のクルマのところに到着すると、中に乗っているひとたちに、「だいじょうぶですか」と訊いたわけです。

 その事故が終わって数日たってから、警察の事情聴取みたいなものを受ける機会がありました。そのときお巡りさんに、「クルマに乗っていた人たちが軽症で済んだわけですけれども、それもとても良かったこと、珍しいことだけれども、あなた自身の方が本当は珍しい。それは奇蹟ですよ。」と言われたのを覚えています。あいていたのはフロントガラスだけですから、フロントガラスを飛び抜けて、私は外に出ているわけです。本当はフロントガラスに挟まってみたり、自分のクルマに轢かれる。あるいはそうでなくても、後続するクルマにきっと轢かれていたでしょう。「あなたが助かったのは奇蹟的な出来事」、「あなたこそが奇蹟ですよ」とその時に言われたのを覚えています。たしかに今思うと、あれはたしかに私の中では大きな奇蹟的な出来事と言っていいかもしれません。

 教会で私たちが奇蹟というときには、そこに神様が関わる特別な出来事を奇蹟とよびます。私たちの世界の中において、人間の一人舞台ではなく、そこに神様が関わったとひとが思う時に、それを奇蹟と言います。私が神学校に入る前に、ちょうどラテン語を勉強している時に、その事故に遭ったので、信者さんたちは「それは神様が助けてくださった。奇蹟的な出来事だ。(今日の答唱詩編にあるように)『私は死なず、私は生きる。神の業を告げるため』*2、神様はそのために、あなたをきっと助けたんだ。」とその教会のご婦人たちは言っていました。私たちのカトリックの世界においては、聖人になるためには、現在においては三つの大きな奇蹟をしなければなりません。私はあと二つすれば聖人になれるのかもしれませんけれども。

 私たちが奇蹟ということを考えるときには、この大きな出来事の奇蹟のことを私たちは考えがちです。今は花見のシーズンで、私も土曜日の朝、混まないうちにと思って、せっかく花見の名所に住んでいますので、九段下から千鳥ヶ淵の方に行ってきました。そうすると、ソメイヨシノが見事に咲いていました。それはとても華やかでした。奇蹟と言う時には何か私たちは、花でいえば、華やかな世界を思い浮かべます。しかしその足下では、今、九段下に行くと、菜の花がきれいに咲いています。菜の花と一緒に見ると、このソメイヨシノの花見もとてもきれいです。桜だけ見るのではなく、私は今ではこの菜の花を見るのを楽しみにしてそこに行くわけです。

私たちのこの神田教会の裏庭にも今、ようやくしだれ桜の花が咲き始めようとしています。きっと来週来られるときにはきれいに咲いているでしょう。しかしその足下には、その庭先には、沢山のスミレが咲くようになります。桜の下でスミレがきれいに咲く。そのスミレの花も、春の楽しみとして待っているわけです。私たちはなにか大きな出来事、華やかな世界に目を奪われがちです。しかしその足下に菜の花とかスミレの花が咲いています。大きな奇蹟だけではなく、小さな奇蹟というのもあるのだろうと思います。それは日常の奇蹟です。
                               

                               

 私の交通事故の出来事も、ある意味では日常の、普通の出来事のうちの一つなのかもしれません。私にとっては大きな出来事ですけれども、そのようなことは沢山あるのかもしれません。そのことは、ある意味では小さな奇蹟と言っていいかもしれません。私たちがそれに気づいていないだけ。今日の二人の弟子たちのようにまだ聖書の言葉をよく理解していなかった。*1神様のいのちの世界のことを、この二人の弟子たちはよく理解していなかった、とヨハネの福音書は語ります。私たちもそうかもしれません。大きなものに、華やかなものに目を奪われて、それを求めますが、私たちの日常の中に小さな奇蹟、そのようなものが出来事としてはあるのだろうと思います。

 さらにいうならば、私たち自身そのものが、ある意味では「奇蹟の一部」と言っていいのかもしれません。私たちは大きな奇蹟、小さな奇蹟を、目の前に探しますけれども、自分自身がその「奇蹟の一部」と言い換えることもできるのかもしれません。二人の弟子たちはまだ聖書の言葉をよく理解していなかった。神様のいのちの世界、復活のいのちの世界、それがどういうものであるか、そのことをこの二人の弟子たちは理解していませんでした。私たちキリスト者は、この復活のいのちを讃えるために今日集まってきました。その集まってきた私たちそのものが、神様のいのちをいただいている一人ひとりです。私たちが、今日私たちの隣に座る一人ひとりが、家族が、そして集まっているこの私たち一人一人の仲間が、ある意味では奇蹟、神様の奇蹟、神様のいのちの世界を現わしているのではないかと思います。

 松尾芭蕉は、花のこの色々な世界を句に詠んでいます。「草いろいろおのおの花の手柄かな」。私たちはそれぞれが小さな花、花を咲かせる奇蹟そのものなのだろうと思います。この復活の主日に、私たちがキリストの復活のいのち、大きな華やかないのちを、その世界を讃えると同時に、私たち自身の中の小さな奇蹟、私たち自身がその奇蹟の一部であること、それに招かれていること、その喜びを生きていること、そのことを今日ともどもに感謝しながら、この復活の主日の御ミサを捧げてまいりましょう。
                                     アシジのフランシスコ 田中隆弘神父
 









  『復活する』(ヨハネ20・1 −9)

 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」

そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
二人は一緒に走った*1が、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布(あまぬの)が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。

イエスの頭を包んでいた覆(おお)いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。

それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。

イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
*1




    
  
『答唱詩編』詩篇118・1+2、16+17、22+23

恵み深い神に感謝せよ。そのあわれみは永遠。
イスラエルよ、叫べ。神のいつくしみは絶えることがない。

神の手は高く上がり、その右の手は力を示す。

わたしは死なず、わたしは生きる。
神のわざを告げるために。
*2


家造りの捨てた石が、隅の親石となった。
これは神のわざ、人の目には不思議なこと。

 
 
家造りの捨てた石が……
「隅の親石」は家の土台となる大切な石。
死者の中から復活したキリストこそ、この石である。
(使徒言伝録4・11)