聖フランシスコ・ザビエルとその時代
―大航海時代、福音の旅路―

4月7日は、聖フランシスコ・ザビエル(1506.4.7〜1552.12.3)の誕生日です。そして来年は、ザビエルの生誕500年にあたります。このことは、ザビエルを保護聖人とするカトリック神田教会にとって誠に意義深いことであり、神田教会では来年「聖フランシスコ・ザビエル生誕500年祭」が計画されています。
そこで、今回はザビエルが「東洋の使徒」として歩んだ生涯と16世紀についておさらいしながら、後半ではザビエルの足跡を辿る1例として、ザビエルが訪れた当時の京都をめぐる話題にも筆を走らせてみましょう。
1. 16世紀の世界 ―ヨーロッパのアジア進出を中心に―
<Q> ザビエルが生まれ、宣教師として活躍した16世紀とは、およそどのような時代ですか。
<A> 16世紀は、よく前世紀と共に「大航海時代」と表現されます。もちろん、それ一色で16世紀を表現できる訳ではありませんが、ザビエルの活躍した時代という主題ですから、ヨーロッパのアジア進出を中心に整理してみます。
そこで、少し煩わしいかもしれませんけれども、世界史の斜め読みにおつきあいいただきましょうか。まず大航海時代に遡る13〜14世紀というと、マルコ・ポーロの『東方見聞録』が想起されるように、ヨーロッパ社会とモンゴル帝国との東西交渉、それとイスラム勢力との対立関係などがありましたが、人や物の移動については陸路の利用が多かったようです。
これに対し、大航海時代の移動手段は、文字通り海路の比重が大きくなりました。15世紀末の1488年にバルトロメウ・ディアスの喜望峰到達、92年にコロンブスの新大陸発見、98年にヴァスコ・ダ・ガマのインド航路の開発があり、そして16世紀には1519〜22年にフェルディナンド・マゼランの率いる艦隊が世界周航を果たしたことなどのように、ヨーロッパ人が艦船によって新たな異境の地に到達した時代です。そして、これを追いかけるように、強国によって貿易、キリスト教の布教、植民地化などが重なるように推し進められたことに特徴があります。この当時の2大勢力はポルトガル、スペインの両国であり、1494年のトルデシーリャス条約によって、まさに世界を二分して領有する勢いでした。ポルトガルの東洋進出は、16世紀初頭以来ゴア、マラッカ、マカオなどに及び、スペインもフィリピンを占領しました。
一方、16世紀末が近づいて1588年にスペインの無敵艦隊がイギリスに撃破されたことは周知の通りですが、スペインとポルトガルが次第に衰退していく流れに乗じてオランダ、イギリス、フランスもアジア進出を狙い、1600年以降に相次いで東インド会社を設立して、その活動を本格化しました。
<Q> このような大航海時代に、ヨーロッパの人たちは日本について正確に把握していたのでしょうか。
<A> この時代の海外進出に必要であり、かつその成果に応じて正確性が増すもの、それは言うまでもなく世界地図ですので、それと関連づけてみましょう。当時のヨーロッパ人は日本を黄金の国と想像していました。そして、ポルトガル人が種子島に漂着し鉄砲を伝えたのが1543年のことで、これが日本と西洋の出会いです。それから数年後、1550年頃の「ミュンスター新大陸図」には、日本は「zipangri」と表記され、北太平洋に浮かぶ南北に大きな島と周辺の群島として無造作に描かれています。その後、同じ世紀の末頃になると形状に日本列島らしさが窺えるような地図になりますし、来日した宣教師の情報によって日本のいくつかの地名が地図上に記載されます。こうした世界地図は、さらに正確性を増しながら、日本にももたらされます。例えば82年に中国宣教を始めたイエズス会宣教師マテオ・リッチの世界図は、のちの鎖国下の日本人が有する世界知識としても一定の役割を果たしています。ちなみに、ヨーロッパに触れる前の日本人の世界観は、中国や朝鮮半島からインド(天竺)あたりまでだったようですから、同じ16世紀の後半に、ザビエルの弟子ベルナルドや天正遣欧使節のようにヨーロッパを訪れる日本人が現れるなどと、一体誰が予想し得たでしょうか。
<Q> この時代のヨーロッパ人が危険を冒してまで東洋に進出した理由は、どのようなところにあったのでしょうか。
<A> この時代のヨーロッパは、いくつもの争いを抱えていました。例えば、13世紀末に建国したオスマン帝国が強大化し、1453年にはコンスタンティノープルを陥落させ(東ローマ帝国の滅亡)、さらにスレイマン1世(在位1520〜66)の時代に全盛期を迎えたことに象徴されるようなイスラム勢力に対する争いがありました。スペインやポルトガルが東洋進出に力を入れたのも、こうしたオスマン帝国の進出によって地中海の東側が支配されたために、東西交渉の要衝であったヴェネツィアを経由するアジア貿易ができなくなくなり、当時の主要な輸入品であった香辛料や香料を新たに恒常的に入手する貿易相手が必要になったことが要因に挙げられます。
<Q> ほかに、ヨーロッパではどのような争いがあったのでしょうか。たしか、宗教改革もこの頃のことと聞いています。
<A> いくつか例だけ挙げますと、1455〜85年にイギリスの王位継承をめぐるばら戦争、1494〜1544年(広義には、〜59年)にイタリア支配をめぐって諸国間の抗争となったイタリア戦争などが挙げられます。いずれも、この頃をテーマにした世界史の文献に詳しく書かれていますから、御興味があれば御覧ください。
一方、1517年からマルティン・ルターによる宗教改革に加え、41年にジュネーヴでジャン・カルヴァンによる宗教改革が始まり、34年にはイギリス国教会が生まれるなど、相次いでプロテスタント教会勢力が台頭しました。これに対し、カトリック教会は45〜63年にトリエント公会議を開いて、教皇権や教義の再確認などを行うという展開になりました。新旧両教派間の対立と緊張関係は続き、その和解には長い歳月を要しました。
<Q> 16世紀で特徴的なことを、ほかに少しだけ挙げてください。
<A> 科学分野では1543年にニコラウス・コペルニクスが『天球回転論』を著して地動説を説いたことが特筆されます。 また、芸術文化ではレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ・ブオナローティ、トマス・モアらが活躍した時代です。
その作品については、ここでは触れません。
2. 宣教師フランシスコ・ザビエルの誕生
<Q> それでは、ザビエルの生涯に関する話題に移りたいと思います。ザビエルの生誕地はどこですか。また、彼はどのような幼少期を過ごしたのでしょうか。
<A> フランシスコ・ザビエルが生まれたのは、これまでに略観したような時代の中のことで、冒頭にあるとおり1506年4月7日です。ザビエルをスペイン人とする文献がありますが、彼が生まれ育ったのはナバラ王国です。御存知の方、実際に現地を訪問された方も少なくないと察しますが、ピレネー山脈の南北にまたがるバスク地方の南側にナバラ王国は位置しており、その東端にある要塞が「ザビエル城」です。彼は、このザビエル城主の末子として産声を上げました。バスク人については、とりわけ意志が強固であり異境の地への冒険心に富む、という民族性があると言われていますから、ザビエルの気質もこうした環境によって培われたのかもしれません。
ザビエルの少年時代は、決して平穏という訳にはいきませんでした。1512年にスペインがナバラ王国に侵攻し、15年に王国は併合されてしまいます。このため国王の側近だったザビエルの父フアン・デ・ハッスは心労で亡くなりましたし、21年にはフランス・ナバラ連合軍に加わってスペインと戦ったザビエルの兄2人も敗走を余儀なくされました。
なお、一般にザビエルと表記されますが、これは英語の呼び名に基づきます。したがってザヴィエルと表記する文献もあります。ほかに、ラテン語ではザベリオ、スペイン語ではハビエル、ポルトガル語ではシャヴィエル、というようにさまざまです。名前のフランシスコは、アッシジのフランシスコにあやかって命名されました。
<Q> ザビエルが宣教師となるまでには、どのような道程があったのですか。
<A> 幼少期に苦難を味わったザビエルでしたが、彼は聖職者を志して1525年にパリ大学の聖バルバラ学院に入学して勉学に励み、さらに29年に母マリア・デ・アスピルクエタの没後に寮生活を始めます。この寮で同室となった15歳年長のイニゴ・デ・ロヨラなる人物は、かつてザビエルの兄2人と交戦したスペイン軍の一員だった人ですが、この人こそ聖イグナチオ・デ・ロヨラです。34年8月15日、パリのモンマルトルの丘でイグナチオやザビエルは同志と共に清貧・貞潔・聖地巡礼の誓願を立て、そしてイグナチオを総長として彼らが組織したイエズス会は、40年9月27日に教皇パウルス3世によって正式に認可されました。この間、37年6月24日にザビエルは同志と共にローマの聖マルコ大聖堂で司祭に叙階されました。
<Q> ザビエルがイエズス会士として日本に派遣されるまでの道程はどうだったのですか。 彼は初めから日本へ行く気持ちがあったのですか。
<A> 当時のイエズス会は、プロテスタント教会勢力に対抗しつつ、カトリック世界伝道に従事したことで知られています。ザビエルも、1540年にイグナチオからポルトガル国王ジョアン3世の要請を聞き、インドへの宣教を引き受けます。そして彼は、翌年35歳の誕生日にリスボンを出航し、インドのゴアやマレー半島のマラッカなどで宣教、修道院の設立、司祭の養成、教理の翻訳などに勤しみました。やがて47年、マラッカでザビエルに新たな使命が訪れます。それは、12月7日の日本人アンジロウ(ヤジロウなどとも表記)との出会いが契機となって、ザビエルが志した「日本宣教」です。彼は、49年4月15日にトルレス神父、フェルナンデス修道士、日本人3名らと共にゴアを出航し、ついに8月15日にアンジロウの故郷である鹿児島に到着しました。
3. 16世紀の日本とザビエルの宣教
<Q> ザビエルが宣教に訪れた16世紀の日本を一言で表現すると、どのような時代でしたか。
<A> 16世紀の世界と同じように、僅かな言葉で日本の時代像を表現することは至難ですが、それでも粗っぽく纏めてみましょう。16世紀の日本は、戦国時代から安土桃山時代、すなわち天下統一へ向かっての激動の時代、まさに戦乱の世であったと言えるでしょう。1336年に成立した室町幕府は、1467〜77年の応仁の乱(応仁・文明の乱とも称す)によって権力が衰え、代わって戦国大名の成長と相互の対立抗争が続きました。そして1573年、将軍足利義昭が織田信長に追放されて幕府は滅亡しました。一方、この時期の朝廷も実質的に弱体化しており、これ以降、織田信長、豊臣秀吉が政権を掌握し、さらに1600年に関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が03年に江戸幕府を開く……この時代を駆け足で眺めると、こんな流れでしょう。
<Q> ザビエルの日本での宣教活動ですが、まず、その前半の足取りや収穫はどうでしたか。
<A> 初めにザビエルの日本滞在期間を確認しておきますが、彼がトルレス神父らと共に鹿児島の地を踏んだのは、ちょうど16世紀の中頃、前述のように1549年8月15日、聖母被昇天祭の日のことです。そして彼が日本を離れたのは51年11月15日ですから、その滞日期間はちょうど2年3ヶ月です。
ザビエルは、早々と日本人に好感を抱き、宣教の成果を確信しながら活動を始めます。まず1549年9月29日に鹿児島の領主島津貴久に宣教の許可を受け、教理書などの邦訳にあたりつつ宣教を進め、かの地では約1年がかりで受洗者を増やし、日本で最初のキリスト教会を組織します。そして50年7月に平戸へ赴きますが、すぐに引き返し、8月末に再び平戸へ赴き、領主松浦隆信から歓迎と宣教の許可を受け、ここにも教会の基礎を築きます。そして10月末に平戸をトルレス神父に委ねて出発し、博多、下関、山口、岩国を経て、年末年始を堺で過ごします。
<Q> その後、1551年のザビエルは、日本でどのような活動をしましたか。
<A> 1551年1月半ばに、ザビエルは念願の京都に到着します。しかし、そこはザビエルが心に描いていた「都」とは大きく異なり、彼は戦乱の傷跡を目の当たりにします。しかも、日本国内における宣教許可を願うために後奈良天皇への謁見を望みましたが、これが叶わず、かつ比叡山延暦寺訪問なども実現しないまま、ザビエルは僅か滞在11日で京都を離れ、3月中旬に平戸へ戻ります。
京都を去ったザビエルは計画を改め、地方の有力な戦国大名の領地での宣教に重点を置くようになりました。次いで4月末に山口を再訪し、領主大内義隆の宣教許可を得、2ヶ月間で500人に洗礼を授けるなど宣教に励みます。この頃、ザビエルたちは神を「大日」と邦訳していましたが、仏教との混乱があることを認識し、ラテン語に基づく「デウス」と改めて宣教にあたったというエピソードは有名です。この後、こうしたラテン語に根ざしたキリシタン用語が多用されるようになりました。
さらに9月中旬には豊後領主大友義鎮(宗麟。後年受洗したことでも知られる)に招かれて山口を出発し、府内(大分)で宣教に勤しみました。その後、ザビエルは一旦インドへ赴いて宣教状況の視察することを思い立ち、11月15日にポルトガル船で日本を後にしました。
<Q> 日本を離れてからのザビエルの足取りについて、参考までに簡単に知りたいのですが。
<A> その後のザビエルの移動に的を絞って触れてみます。ザビエルは日本人ベルナルドらを伴い、広東の上川(サンチャン)島、シンガポール海峡を経てマラッカへ至り、さらに同地を出発し、1552年1月にコーチンに到着します。その後コーチンとゴアを往復して再びマラッカに移動した後、シンガポールを経て8月に上川島に到着します。ザビエルは、鎖国下の中国で宣教する計画を持ち、その機会を待ちましたが、それを果たすことなく11月に上川島で熱病を患います。彼は闘病の末、12月3日夜明け前にイエズスの名を呼びつつ帰天しました。
<Q> 帰天後のザビエルについて、例えば聖人に列せられたことや、聖遺骨のことなど、特徴的なことがあるようですね。
<A> ザビエルは、1619年に福者に、22年にイグナチオ・デ・ロヨラと共に聖人に列せられました。東洋宣教の保護者として、ザビエルは広く崇敬の対象です。また、彼の遺体はゴアの墓所に安置されていますが、その右腕はローマの中心街にあるジェズ教会に保管されています。この聖腕は、1949年にザビエル来日400年を記念して日本各地で公開され、神田教会へも訪れました。そしてザビエルの聖遺骨は、日本では鹿児島ザビエル教会、山口教会、そして神田教会に安置されています。なお、ザビエルの肖像画や彫像は少なくありませんが、日本で一番馴染み深い肖像画は、おそらく神戸市立博物館に所蔵されている「聖フランシスコ・ザヴィエル像」でしょう。
4. ザビエルが見た京都―ザビエル書翰を読む試みとして―
<Q> ザビエルの活動した時代、そして彼の生涯について、そのアウトラインがわかったようです。ところで、かつてザビエルが記した書翰は翻訳出版されているそうですね。そこで、その書翰を手掛かりに彼の宣教活動や視点、それと当時の日本との関係について、多少具体的な事例を知りたいのですが。
<A> ザビエルは日本を訪れるにあたって、当時の日本に触れた文献を調べ、アンジロウや鹿児島で出会った日本人から聴取した話を手掛かりに、彼なりの日本像を描きました。しかし、まさに日欧交渉の濫觴(らんしょう)期のことですから、さまざまな齟齬が積み重なったことは言うまでもないでしょう。ザビエルと京都との関係などは、その象徴的な面を見せている好例かもしれません。
<Q> それでは、ザビエルが書翰の中で京都について書き記している箇所を幾つか紹介してください。
<A> ザビエルは、まず1549年11月5日付で鹿児島からゴアのイエズス会員に宛てた長文の書翰(後掲の参考文献(1)、第90書翰)の中で、京都に関する予備知識について次のように書き送っています。「ここで鹿児島での私たちの滞在について報告したいと思います。私たちがここに到着した時には、この国の国王(後奈良天皇)および領主たちがいる日本の首都ミヤコ(京都)へ行こうとしても風向きが逆になってしまっていました。今から五ヶ月たたないとそこへ行くための順風は吹きませんが、その時には神のお助けによって〔ミヤコへ〕行きます。ここからミヤコまで〔日本里数で〕三〇〇里あります。その町の大きなことについて私たちが聞かされていることは、九万戸以上の家があること、学生たちが〔たくさん〕いる大きな大学が一つあってこれに五つの主な学院が付属していること、ボンズや時宗と呼ばれる〔私たちの〕修道者のような他のボンズ、アマカタと呼ばれる尼僧たちの僧院が二〇〇以上もあるとのことです。」(なお、文中の300里はザビエルの誤算で、海路220里、陸路250里)
また、同日付で鹿児島からマラッカのドン・ペドロ・ダ・シルヴァに宛てた書翰(第94)の中にも同様の記述があります。「ミヤコについていろいろな話を聞かされますが、体験してから真実を確かめたいと思います。その町には九万六〇〇〇戸の家があると言われています。その町を見たポルトガル人のひとりがここ日本で私に語ったところによれば、〔ミヤコは〕リスボンよりも大きい町であるとのことです。家屋は木造で、私たちの家のように階造りだそうです。来年になれば自分の経験によって〔確かめてから〕閣下にご報告いたしましょう。彼らは理性的な人たちですから、日本の大部分の人びとが信者になることをイエズス・キリストにおいて希望しております。」
これに対し、1552年1月29日コーチンからヨーロッパのイエズス会員に宛てた書翰(第96)では、彼が実見した京都について、次のように記しています。「〔山口で〕信者になった人は少数でした。活動の成果が挙がらないのを見て、私たちはミヤコと呼ばれる全日本の首都へ行く決心をしました。〔山口から京都へは〕二ヶ月間の旅程でした。私たちが通った所でたくさんの戦があったために、途中でいろいろな危険に遭いました。ミヤコ地方のひどい寒さや、途中で出会ったたくさんの盗人のことについては、ここでは話しません。私たちはミヤコに到着し、数日間(一一日間)滞在しました。私たちは神の教えを日本において説教する許可を願い出るために、国王(後奈良天皇)とお話しできるように努力しました。〔しかし〕国王とお話しすることはできませんでした。その後、人びとが国王に従っていないという事情が分かりましたので、日本で説教する許可を願うことに固執するのはあきらめました。私たちはミヤコの地が神の教えを説くために適した状態であるかどうかを見極めようとしました。〔当時〕あちこちで戦争が起こりかけていて、〔宣教できる〕状態ではないと分かりました。このミヤコは昔はたいへん大きな町でしたが、今は戦争のために破壊し尽くされています。昔は一八万戸の家があったと言われていますが、〔荒廃している〕場所が非常に大きいことから見て、それはほんとうだと思います。今はひどく破壊され、焦土と化していますが、まだ一〇万戸以上の家があるでしょう。神の聖教えを述べ伝えるためには、ミヤコは平和ではないことが分かりました・・・」
このように、上京の前と後で、ザビエルの京都に対する理解には随分と変化が見られます。
<Q> ザビエルが目の当たりにした京都の景観について、どのように読み取れば良いのでしょうか。例えば、ザビエルに関する伝記類の中で、応仁の乱の影響で京都が焦土化したままであるかのようなものを読んだ記憶があります。
<A> この時代の京都は、たしかに1467〜77年の応仁の乱によって大きな被害を蒙りました。ただし、乱の終結からザビエルが上京した1551年までには74年間のブランクがありますし、この乱の後も京都は幾度も戦乱や災害に見舞われたという推移があります。例えば、16世紀になってから京都市街に最も大きな影響を与えた出来事は、1536年の天文法華(てんぶんほっけ)の乱であり、これによって京都市街の過半が焼失しました。その後も戦乱は繰り返され、治安も悪化していました。こうした度重なる傷跡があちこちに残り、それがザビエルの目に留まったと考えられます。
その一方でこの時期の京都が、上京・下京を中心として歴史的に最も規模が縮小していたとはいえ、その都度復興が図られ、かつての栄華とは比し難くとも国内最大の都市であったことも見逃すことはできません。つまり、ザビエルの「ひどく破壊され、焦土と化しています」と「まだ一〇万戸以上の家があるでしょう」という半ば矛盾した言葉について、どちらか一方を強調するよりもバランス良く読みとることが必要でしょう。キリシタン時代のほかの宣教師による書翰などにも、荒廃した京都に関する記述がありますが、そちらを読む場合も同様です。
<Q> ザビエルが訪れた当時の京都の景観を、文字史料だけで読み取ることは難しいように思います。何か、その頃の京都を描いた絵画史料はないのでしょうか。
<A> それでは参考のため、絵画史料の例を挙げてみます。すなわち、ザビエルの上京前後にあたる1540年代後半から60年頃における京都の景観を描いたとされる上杉本(うえすぎぼん)の「洛中洛外図屏風」(国宝。米沢市所蔵・米沢上杉博物館保管。他の年代や絵様の洛中洛外図に対して「上杉本」と冠して区別される)を見てみましょう。この上杉本洛中洛外図は、1574年に織田信長が上杉謙信に贈ったとされ、65年に絵師狩野永徳が描いたものであると検証されており、上述の年代における京都の景観を探るうえでも貴重かつ著名な絵画史料です。
そこには応仁の乱以降に復旧した寺社や屋敷、あるいは応仁の乱でも被害が少なかった御所やその他の建造物、そして京都の復興に貢献した町衆の住まいなどが活写されています。ここに見られる京都の景観を、ザビエルが目の当たりにした景観そのものであると評することは無理ですし、そもそも実写ではなく一部に誇張された絵画表現や強いて除外された荒廃地があったことも窺えますが、しかし描かれた建造物は、ザビエルの上京時に概ね存在したものを基礎としています。これらを踏まえて、ザビエルの訪れた京都が廃墟同然のように記される文献と、この洛中洛外図を見比べると、かなり違和感を覚えるのではないでしょうか。少なくとも、ここに描かれた景観は、仮に美化して描かれているにせよ、焦土とは言い難いものです。
つまり、当時の京都には「焦土」という衝撃的な言葉から読み取れるような荒廃した土地や損傷した建築物があったのみでなく、一方の「一〇万戸以上の家がある」と記したザビエルの冷静な観察が示唆する復興過程の都の姿があったことにも、私たちは目配りが不可欠と言えます。少し付け加えれば、ヨーロッパにある石造りの堅牢な城塞や邸宅を見慣れた宣教師たちが見た日本建築の評価は、当時そして現代も日本人のそれと一致しない面があることは当然のことでしょう。
なお、キリシタン時代を表す絵画史料に「南蛮屏風」があります。当時の南蛮船や宣教師たちの風俗などを知る手掛かりとして、南蛮屏風は屡々例示されます。その意味でも、同様に洛中洛外図もザビエルが上京した頃の京都を知る手掛かりとして貴重だと言うことができます。
<Q> ほかに、ザビエルの京都訪問について、背景知識として知っておくべきことはありますか。
<A> ザビエルが謁見を望んだ後奈良天皇は、即位してから10年余も朝廷の財政難によって即位式を挙げられなかったという苦渋を味わっており、朝廷の力が弱体化していた時のことでした。将軍足利義輝もまた、京都から近江坂本へ逃れていました。戦国大名の力関係も年を追って変動する時代でした。いずれにせよ事細かな検証を要しますが、ザビエルが京都で成果を挙げるには、かなり困難な時期に上京したことは確かなようです。
<Q> ザビエルに関する伝記などの文献を読む際には、どうやら問題意識や留意すべきことがありそうですね。
<A> ザビエルについては限られた史料を典拠に今日まで多くの研究文献などが著されていますが、未だ史実を確定するには至っていない点も少なくありません。また、文献ごとに記述内容の異同が生じているケースも見出されます。これから私たちがザビエルの全体像を捉えるにあたっては、現在もこうした史実を解明する過程の直中にあることを踏まえておきたいものです。
ただし、事細かな史実の確認や確定といった面に目を向けるのは、あくまで必要最小限のことです。それよりもザビエルを通して私たち1人1人が神様についてより深く知り、また神田教会の内外で交わりの輪を拡げることの方が重要だと思います。そのほか、例えば視点を変えてザビエルが生まれ育ったバスク地方の料理、服装、祭など、さまざまな興味に基づくアプローチも良いのではないでしょうか。
5. 結びにかえて
ザビエルの生涯とその時代について、ごく掻い摘んで記してみました。しかし具体的な検証には殆ど立ち入っていないにもかかわらず、かなりの紙数を費やしてしまったようです。
これから来年4月7日の「ザビエル生誕500年」まで、ほぼ1年です。神田教会では、その準備活動が徐々に始まっています。記念祭当日に向けて、稲川神父様の御指導に応えながら、祈りつつ着実に進めることができれば幸いです。
○主な参考文献=(1)河野純徳訳『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』/(2)河野純徳著『聖フランシスコ・ザビエル全生涯』/(3)岸野久監修『徹底大研究
日本の歴史人物シリーズ10 フランシスコ・ザビエル』/(4)H.チースリク編『フランシスコ・ザビエル 希望の軌跡』/(5)結城了悟著『ザビエル』/(6)尾原悟著『ザビエル』/(7)吉田小五郎著『ザヴィエル』/(8)P.ミルワード著、松本たま訳『ザビエルが見た日本』/(9)ルイス・フロイス著、松田毅一訳『完訳フロイス日本史』/(10)ザビエル渡来450周年記念行事委員会編『「東洋の使徒」ザビエル』/(11)東武美術館・朝日新聞社編『来日450周年
大ザビエル展 図録』/(12)『芸術新潮』1999年2月号(特集「ザビエルさん、こんにちは」)/(13)長崎純心大学博物館編『ザビエルのサンダル』(来日450周年記念)/(14)菅井日人『ヨーロッパ新紀行
ザビエルの旅』/(15)坂東省次・川成洋編『スペインと日本』/(16)エンリケ.R.アユカル著『スペイン巡礼の旅』/(17)増田義郎『大航海時代』/(18)神田千里著『日本の中世
11 戦国乱世を生きる力』/(19)石田尚豊ほか監修『〔国宝〕上杉家本洛中洛外図大観』新装新訂版/(20)黒田日出男『謎解き洛中洛外図』/(21)小沢弘・川嶋将生著『図説上杉本洛中洛外図屏風を見る』/(22)京都市編『京都の歴史』
(文責 N.N)