聖歌点描(4)
『典礼聖歌』− 作詞・作曲者
前回は典礼聖歌集の各ページ右上に印刷してあるCLとかTSというアルファベットが、上段は作詞者、下段は作曲者を示すということをご説明しました。それだけではどなたの作か分かりませんが、巻末の「作詞作曲者」を参照すると、そのアルファベットに対応する作者名が明らかになります。
つまりCLとは典礼聖歌編集部であり、TSが田三郎さんであることが分かります。その他にも、たくさんの個人名が載っており、それによって、日本語による典礼聖歌の創作に貢献された聖職者や教育者、詩人や音楽家のお名前を知ることができます。異色なのは、由木康というプロテスタントの牧師さんのお名前も含まれていることで、この曲集が第2ヴァチカン公会議の趣旨を尊重し、エキュメニカルな視点で編集された意図がよく分かります。
とはいえ、全体を通して最も目につくのはCLとTSのイニシャルです。作詞がCL=編集部によるものは、すべて聖書を韻文化した詞で、聖書そのままの字句よりも歌いやすいように配慮されています。そしてそれに基づき、多くの曲を寄せられた田三郎さん(1913-2000)のご活躍は特筆に価します。
氏の活動はご自身のあらわした「典礼聖歌を作曲して」「くいなは飛ばずに」「ひたすらないのち」等の著作からうかがい知ることができますが、何といってもその作品自体にハッキリとした個性がにじみ出ています。そこには聖書のみことばに共感する深い信仰と、伝統的なグレゴリオ聖歌の様式を尊重する卓越した音楽性と、日本人の心に通底するおだやかな旋律とリズムが流れており、歌う者聞く者の気持ちをひきつけます。詞も曲も田さんによる典礼聖歌400番は、その代表作の一つです。
ちいさなひとびとの
ひとりひとりを見守ろう
ひとりひとりの中に キリストはいる
まずしい人が 飢えている
まずしい人が 渇いている
くにを出た人に 家がなく
寒い冬には 着物がない
ちいさなひとびとの・・・(繰り返し)
病気の人が 苦しみ
牢獄の人は さげすまれ
みなし子たちは さびしく
捨てられた人に 友がない
ちいさなひとびとの・・・(繰り返し)
この歌詞は、最後の審判に関するイエスの教え(マタイ25:31-46)によるものですが、もしこれだけを街頭で声高に叫んだら、人は「ああ、難民救済の募金活動か」と思って避けて通るかもしれません。一種の押し付けがましさ、下手な説教を聞く思いにかられる人がいるかもしれません。しかし、いったんこの曲を歌ってみれば、そのような感じとはうらはらの、人の善意を信じきったやさしい愛の思いにかられるでしょう。多分そのような印象から、この曲は教会外でも非常によく歌われる、ポピュラーな賛歌となっています。
これと同じようなことが田作品のあらゆる曲に共通しているようです。もう一つの例をあげてみましょう。これは典礼聖歌ではなく、聖書に基づく曲でもありません。しかし、なぜか日本人の心情に深く訴えかけるものがあり、この曲によって多くの人が信仰に導かれたといわれています。「水のいのち」と題するこの合唱組曲の歌詞は、典礼聖歌でTKと記された高野喜久雄さんという詩人の作で、田さんは好んでこの方の詩に付曲されています。次は第1曲「雨」の歌詞です。
降りしきれ 雨よ 降りしきれ
すべて 立ちすくむものの上に
また 横たわるものの上に
降りしきれ 雨よ 降りしきれ
すべて 許しあうものの上に
また 許しあえぬものの上に
降りしきれ 雨よ わけへだてなく
涸れた井戸 踏まれた芝生
こと切れた梢 なお ふみ耐える根に
降りしきれ そして 立ちかえらせよ
井戸を井戸に 庭を庭に 木立を木立に 土を土に
おお すべてを そのものに
そのもののてに
この短詩にこめられた「許しあうもの」と「許しあえぬもの」、あるいは「こと切れた梢」と「ふみ耐える根」といった劇的な対応。そしてそれらを浄化するように激しく降りしきる雨。何と音楽化するに難しい痛切な魂の表白でしょう。しかし、この詩による田さんの曲を聞くと、豪雨も慈愛の雨と感じられます。あるいは神様の涙、と感じとることもできるでしょう。美しいピアノ伴奏が間断なく奏でる雨の情景にのって、4部合唱の歌声が全てを調和の世界に包みこんでいきます。合唱愛好者なら一度は歌ったり聞いたりしたことのある名曲です。ふとポール・ヴェルレーヌ作・堀口大学訳の「巷に雨の降るごとく・・・」という名詩を連想しますが、この詩と曲にはそれを超えた高い次元の祈りが、日本語ないし日本人特有の詩歌の伝統に歌いこまれています。
このように田作品には、典礼聖歌と世俗曲を問わず、西欧のキリスト教文化と日本固有の文化を総合した、高い芸術的価値が内包されていると思われます。が、そうした気取りや構えを感じさせないのも、もう一つの際立った特徴です。現代音楽特有の特殊な技巧やことさらに快感を誘うリズムはなく、音楽的には単純そのものの構成で、日本語の歌唱に少しのムリもありません。ごく自然に口をついてでる、ある懐かしさを感じさせられる曲づくりです。それが祈りの歌、讃美の歌としての本質的・普遍的価値を一層高めているのでしょう。
田さんは、こうして日本人による日本語の宗教音楽の創作と普及に生涯を捧げ、2000年10月に帰天されました。その翌年4月に行なわれた追悼ミサでは、遺作となった「来なさい 重荷を負うもの」という聖歌が大合唱で奉唱され、東京カテドラルの聖堂をみたしました。残念ながら、この聖歌は典礼聖歌集には載っていませんが「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう・・・(マタイ11:28-30)」という聖句に基づくこの曲は、いかにもレクィエムにふさわしく、しんしんと参列者の心にしみわたったものです。生前、峻厳をもってなる氏のお人柄をそのままに映した遺影も、かすかに微笑んでおられるように感じられました。田さんの手になる歌詞は、次の通りです。
来なさい 重荷を負うもの
苦しむものは みな私のもとに
わたしはあなたを休ませる
わたしは柔和で謙遜だから
受けなさい わたしのくびきを
なりなさい わたしの弟子に
わたしのくびきは負いやすく
わたしの荷は軽いから
あなたの心は安らかになる
田作品の多くは、ビクターやフォンテックからリリースされたCDに収録されています。
(文責 K.O.)