聖歌点描(5)


『ザビエルの聖歌』

  作家の遠藤周作さんが亡くなられてからもう9年。ほんとうに光陰矢のごとしで、いろいろなことが忘れ去られていきます。しかし、広尾の聖心で行なわれた追悼ミサの後に、やわらかい音色で響きわたった遠藤郁さんの美しい聖歌が忘れられません。郁さん、などと気安く書いてしまいましたが、それは作家のご母堂郁子さんの通称で、ご子息2人を洗礼に導かれた音楽家です。そして故人はその母君をことのほか敬慕し、「あの世に行ったらおふくろに会える」ことを楽しみにしつつ「光の中につつまれていった」そうです(夫・遠藤周作を語る/遠藤順子/文芸春秋刊)。純文学を書いているときは、母上の写真を胸のポケットにしのばせ、時折テープに遺された歌声を聞いておられた、という話も聞いたか、読んだ覚えがあります。

  それほど存在感ある母親ってどんな方だったのだろう。いつもそう思っていたので、非常な興味をもってその歌に耳傾けました。ところが、ミサ後のざわめきで歌詞が聞きとれず、ただその曲の明るさが、追悼ミサに似合わない爽やかなものとして印象に残っただけでした。残念なのでその曲の出所を懸命に探りましたが、どうしても分かりませんでした。

  ところが偶然、1998年に「讃美歌 こころの詩(うた)(日本基督教団出版局)」という本が出て、その中の「ザビエルの聖歌」と題する随筆によって曲の由来が分かったのです。著者はこれまた惜しくも今年の3月に逝去された童謡の「サッちゃん」で知られる作家の阪田寛夫さんですが、やはり追悼ミサでこの曲に接し、心ひかれてそのルーツを探られたようです。そして非常なご努力の結果、エリザベト音楽大学のヘンゼラー教授から、その出典を教えられた、とのことでした。

  それは1933年に日本初のカトリック共通・統一聖歌集として出版された「公教聖歌集」の一曲です。この聖歌集は、第二次世界大戦をへて1966年まで全国の教会で用いられたものですから、今でも懐かしく歌っていらっしゃる方もいらっしゃることでしょう。その120番がこの「ザビエルの聖歌」です。

  ただ、残念なことに、今日の教会では殆ど知られておりません。というのは、「公教聖歌集」が66年に大幅改訂され、現在の「カトリック聖歌集」になった時、その120番は451番に変わり、歌詞も全く変わってしまったからです。今その曲は「清き白百合」と題する「死者(小児)」のための歌となっており、あまり用いられる機会がないのです。

  では、遠藤郁さんが歌われた頃の120番の歌詞はどうだったかというと、次の通りです。

120  我が主を愛する歌

 @ わが為十字架に つきまししは誰ぞ
    み神のひとり子 主イエズス・キリスト

 A われは主を愛す ひねもす夜もすがら
   忘るるひまなく われは主を愛す

 B わが為にぞ主は み栄え棄てまし
    なやみ苦しみて 息絶えたまへる

 C ふかきその愛に 天をも陰府をも
    忘れてひたぶる きみをのみ慕ふ

 D わが主わが神よ 我とはに愛せん
    量りも知ら(ママ)得ぬ み愛にこたへて

    (聖フランシスコ・ザベリオの言葉より)

  阪田さんの前掲書によると、録音されていたのはこの歌詞の2,5節のみだったようです。阪田さんは又、ヘンゼラー教授に、原曲が誰の作曲によるものか、「聖フランシスコ・ザビエルの言葉」の出典は何か、ということもお尋ねになったようですが、「それは全く分かっていない」というご返事だったそうです。

  ただ、「公教聖歌集」は全国各地の教会で個々別々に流布していた明治期からのフランス系聖歌集や、大正期以降のドイツ系聖歌集を集大成したものなので、原曲がその何れかを翻案したものであることは確かなようです。ヘンゼラー先生の研究グループは、こうした明治期のカトリック聖歌史の研究を現在活発に進めておられるようなので、今後の成果に期待したいと思います。

  それにしてもこの聖歌は、阪田さんが本文の中で<この歌を素直に歌われた遠藤郁さんと、多分思いぞ屈した時にそっとひとりで聴かれたという遠藤周作さんの姿が、日本にキリスト教を最初にもたらしたザビエルに重なって、いろいろなことを考えさせてくれます>と述べておられるように、貴重な聖歌と思います。 いろいろな想いをかき起こしてくれるのです。特に遠藤文学との関連でいえば、周作69歳の時に新潮社から上梓した「王の挽歌(上・下)」が思い浮かびます。

  これは「戦国の世に、西洋と正面から向き合った九州・豊後の王:大友宗麟」の物語ですが、そこには聖フランシスコ・ザビエルとの出会いから、自ら願ってその名を霊名にいただいて受洗し、後に豊後の府内(現・大分市)の教会で聞いた音楽に魅せられ、日向(現・宮崎県)にキリシタンの理想郷「無鹿(ムジカ=音楽の意)」を拓いたキリシタン大名の、屈折した生涯がつぶさに記されています。

  この「無鹿」の里は、創建間もなく島津軍との戦に破れてあえなく滅ぼされ、現在はその痕跡すらないようですが、地名だけは残って、人々の幻想を誘います。周作も最晩年にこの地(延岡市郊外、北川周辺のなだらかな丘陵地帯)を訪れ、はるか昔を偲んでその想いを「無鹿」と題する短編にまとめています。こうした晩年の著作の伏線には、周作48歳の時の「母なるもの」という短編集があるのでしょう。そこでは、かなり直接的に母への思い、その母を通して迫害の苦難にあえぎながらも信仰にすがったキリシタンへの思いが語られ、それが人間の存在を超える、もっと大きな存在へと昇華していくのです。そしてその底に、通奏低音のようにキリシタンの祈りの歌が流れています。

  おそらく周作さんにとって、「思いぞ屈したときに聴く」母上の「ザビエルの聖歌」は、このキリシタンの祈りの歌のようなものだったと思われます。ザビエルゆかりの教会に集うわたしたちも、この遠藤母子と思いを一つにして、この歌の灯をともし続けたい思いにかられます。曲は今もあるのですから、歌詞を変えれば、皆で歌えるのではないでしょうか。

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  なお、この「聖歌点描」に、聖歌に関する思い出や感想、あるいは新しい聖歌との出会いのお話などをお寄せください。手書きの原稿でも、お話を聞かせていただくだけでも結構です。特に今は明治・大正期の聖歌のことや、終戦前後の聖歌隊の活動についての情報を欲しています。古い資料をお貸しいただくだけでも幸いです。

(文責 K.O.)