聖書研究




稲川神父様のお話


 C年 年間第六主日  ルカ 6章17,20〜26節(2月15日の朗読)

 17:イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子
    とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの
    海岸地方から来ていた。             、
  20:さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、
    神の国はあなたがたのものである。
  21:今、飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。
    今、泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。
  22:人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を
    着せられるとき、あなたがたは幸いである。
  23:その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、
    預言者たちに同じことをしたのである。
  24:しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを
    受けている。      、                    
  25:今、満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるように
    なる。 今、笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。
  26:すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預
    言者たちに同じことをしたのである。」


   [福音の研究]

 C年年間第六主日の3つの朗読個所のテーマは「自分を頼みとして生きる人の不幸と
神を中心に生きる人の幸い」です。第一朗読のエレミヤ書17章5〜8節では人間の力
に頼って心が神から離れる者の災いと神を頼みとし、信頼するものの幸いが述べられて
います。第二朗読のTコリント書15章12,16〜20では復活したキリストを中心と
した生き方への勧めが語られ、答唱詩篇 詩篇1では正しい人の道と悪人の道について語
る知恵の詩篇が用いられています。これらの朗読の頂点は神の祝福について語るイエ不様
の説教であり、四つの幸いと四つの不幸が対比されています。


1.17節「イエスは使徒たちといっしょに山を下り、平らなところにお立ちになった」
 ルカ6章20節から49節までは「平地での説教」と呼ばれています。「山」は神さまの
 住まい、神さまの現れるところと考えられていましたから山を下りるキリストは神のも
 とから人々の住むところ(平地)に来られる方であり、人々の中で、神のことば(ルカ
 5:1)を語るお方であることが強調されるのです。




 「幸い」についてのイエスさまの説教と言えば、私たちはすぐにマタイ5〜7章の
山上の垂訓(真福八端)を思い出すことでしょう。マタイはユダヤ人からキリスト教徒
になった人々のために福音書を書きましたので、イエスさまを新約における「新しい
モーセ」、の姿で表そうとしています。それゆえ、モーセがイスラエルの民に神の民に
ふさわしい生き方となる指針として律法を与えたように、新約の神の民に神の国の新し
い生き方を三つの章(107節)を費やして集大成しているのです。


2・20〜23節 四つの幸い
1)「貧しいあなたがたは幸い」
   ここで言われる「あなたがた」とは誰のことでしょうか?
 @弟子たち(12人の弟子たちはすでに使徒と呼ばれています)
 A教えを聞こうとして集まった群集(6:18)
 B「聞いているあなたがた」(6:27)
 C「私のもとに来て、私のことばを聞いて行う人」(6:47)
 Dティオフロ(神を愛する者 ルカ1:1)として、福音書を開く人々

   ナザレの会堂では、貧しい人に福音が告げられる時が到来したことがイエスさま
   によって語られましたが、この説教においては、その貧しい人たちに神の祝福が
   与えられることが告げられています。


  「貧しい」:イエスさまの弟子たちはイエスさまとともに歩き、定住する地、家を
  もたず、職業も家族も捨てており、現実的に貧しい暮らしでした。しかし、彼ら
  は神の国にすでに所属しはじめているのです。それゆえ、神の愛と正義の実現の
   ために働くように招かれているのです。

2「今」 第二と第三の幸い
  第二と第三の幸いには「今」ということばが冠されています。また、その後半部分
 の「幸い」は未来形で記されています。イエスさまの福音は「今」貧しい人、飢えて
 いる人、泣いている人に向けられ、そのような人たちにのみ、心まで到達するのです。
 「今」に満足していない人がイエスさまのことば、存在、生き方の中に真の幸いを深
 し求めるのです。従って、「今」イエスさまのことばに耳を傾けることが神の国に入る
 第一の条件なのです。


3)「人の子のために‥・」
 人の子のために迫害されることを何故、喜べるのでしょうか?その時にこそ、その
 人は、一歩、あの十字架上のイエスさまの姿に近づくのですから。




3.24〜26節 四つの不幸
  この「不幸だ」というイエスさまのことばは断定的な宣言ではありません。それは
 むしろ「ああ、なんということだ、ああかわいそうに」という詠嘆のことばとして語られ
 ているのです。何故、イエスさまはこのような人たちを「かわいそうだ」と嘆くのでしょ
 うか? その答えは、新しいぶどう酒と皮袋のたとえ(ルカ5:37〜39)の最後の
 一節「誰も古いぶどう酒を飲んでから、新しいものを欲しがりはしない。『古いものがよい』
 と考えているからである」が手がかりになると思います。「今」に満足している人間は、
 「今から」語られるキリストのことばに心を開きにくくなるのです。


  マタイ福音書23章13〜36にはフアリサイ人や律法学士に向けられた7つの不幸
 (呪い)が記されていますが、ルカの四つの不幸は「あなたがた」に向けられていること
 に注目して下さい。マタイのテキストと違って、ルカの場合、四つの祝福と四つの戒めの
 ことばは同じ「あなたがた」に向けて語られているのです。


  [祈りとわかちあいのヒント]          

1,あなたはどんな時に幸せだと思いますか。また不幸だと思うのはどんな時ですか?

2.あなたが最近、「幸せだなぁ」と思った四つのことは?

3.あなたが最近、「不幸だなぁ」と思った四つのことは? 

4 あなたが落ち込んだ時、どのようなことが立ち直るキッカケになりますか?

5.あなたはこれまで、キリスト者であるためにつらいことやいやなこと

  損をしたことがありますか?