聖書研究




稲川神父様のお話

 

  B年年間第二主日 ヨハネ1章35〜42節 (1月15日の福音朗読)

35:その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。
 
  36:そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。

 37:二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。

  38:イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」

    と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――

   どこに泊まっておられるのですか」と言うと、

  39:イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、

    彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。

    そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。

40:ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・

   ペトロの兄弟アンデレであった。

  41:彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――

    『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。

  42:そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見

    つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』

    という意味――と呼ぶことにする」と言われた。


[福音の研究]

B年はマルコ福音書が主として朗読される年ですが、マルコ福音書はかな

り短いので、いくつかの主日にはヨハネ福音書が朗読されます。今日がその

ケースの一つです。 今日の箇所は洗礼者ヨハネが「あの方が神の小羊です」

と証言し、二人の弟子がイエスの後を追いかけ、とまどいながらイエスと

言葉を交わし、出会うという姿が語られています。


 一見すると何気ない会話と出会いのように見えますが、実はこの箇所はヨ

ハネ福音書にとって、またその福音書を読んでいる私たちにとって重大なメ

ッセージがこめられているのです。

 それでは、その隠された意味についてご一緒に考えて見ましょう!


35節 「その翌日(聖書と典礼ではその時となっていますが)、ヨハネは

     二人の弟子と一緒にいた」

 

*ヨハネ福音書ではメシアの最初の一週間と最後の一週間が大変重視されて

おり、最初の一週間について1:29、35、43、2:1に日付が、最後

の一週間について12:1、12、13:1、18:28、19:31に日

付となるものが記されている。旧約聖書の創世記と同じく、救済史的には新

しい神のわざがスタートすることを表しているのです。つまり、イエスのメ

シアとしての最初の一週間と最後の一週間は新しい天地創造、新しい人間の

創造と言うべき十字架と復活のテーマがそこにあるのです。


 *1:35に記される「翌日」というタイムマーカーは四日間にわたる出来

事を結びあわせて、イエスが何者であるかを示してゆきます。四日間に渡っ

て毎日、キリストの新しい称号が紹介され、ヨハネ福音書の著者たち(初代

教会)がイエスに対してもっていた信仰の大部分が福音書の冒頭で集約的に

提示されているのです。


*その第一が「神の小羊」です。福音書の翻訳によっては「見よ、世の罪を取

り除く神の小羊」となっており、この独特の称号は、イザヤ52:13〜

53:12に記される「神の苦しむしもべ」を暗示すると思われます。ヨハ

ネ福音書の記述によれば、イエスが十字架にかけられた日は、過ぎ越しの食

事の日の用意の日で、同じ時刻に、神殿では過ぎ越しの犠牲となる小羊がほ

ふられていたことを示しています。(18:28) ヨハネ福音書の著者に

とって、イエスは新しい過ぎ越しのための小羊であり、その血は柱とかまち

すなわち、たてとよこの木に塗られ、その血が新しい神の民が誕生したしる

しとなったのです。

*さて、イエスの称号は洗礼者ヨハネの「神の小羊」に続いて、二組の弟子

たちの召命の物語(35〜42節のヨハネ、アンドレア、ペトロ、43〜

51節のフイリッポとナタナエルの召命)において、次々に紹介されて行き

ます。「先生(ラビ)」「メシア(救い主)」、「預言者」、「神の子」、

 「イスラエ
ルの王」がそれです。これらの称号は、初代教会の人々がイエスに

 対する信
仰を表明するために用いたものであり、彼らのイエス理解、キリスト論で

 あ
ります。


⇒私たちはイエスをどのように呼んでいますか?


38節 「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めている

     のか』と言われた。


*この言葉こそ、ヨハネ福音書における最初のイエスの言葉です。従うこと

を望む人々にイエスがなされる最初の質問であり、また福音書の著者である

ヨハネが読者の一人ひとりに対して発する質問です。この質問は福音書の最

後に少し形を変えて、再び登場します。すなわち、復活したイエスが涙にく

れるマグタラのマリアに対して「だれを求めているのか(だれを捜している

のか)」と尋ねています。


⇒私たちはイエスに何を求めているのでしょうか? 


*イエスの敵は、彼を殺そうとしてイエスを「求め」ます(5:18、7:

1、19、18:4以下)。しかしイエスは彼らに「あなた方は私を求めるが

私を見出さない。私のいるところに来ることはできない」(7:34)、「私

を求めるが自分の罪の中に死ぬのだ」(8:21)と仰せになります。唯一の

正しいイエスの求め方はイエスが「父のみ旨」(5:30)とその「栄光」(7:

18)を求めて、父との親しい交わりを得られたように、イエス自身と親し

く交わることです。

 

38節〜39節 「ラビ、どこに泊っておられるのですか?」………

        「来なさい。そうすればわかる(来て、自分の目で

         ご覧なさい)」


*何気ない会話の言葉ですが、この弟子たちが発した言葉は、ヨハネ福音書

の著者にとって、大切なキーワードなのです!聖書と典礼の翻訳では「泊っ

て」となっていますが、原文のニュアンスでは『留まる』なのです。この『留

まる』はヨハネ福音書の中では、たびたびイエスの口から語られています。

@ 1:38〜39 「どこに留まっておられますか」(最初の出会い)

 21:20〜22 「彼が留まるのを望んだとしても」(最後の出会い)

A 6:5、15:4,6,7 「私の中にとどまりなさい」

B 15:9 「私の愛にとどまりなさい」

C 5:38、8:31 「私のことばにとどまりなさい」

D 14:10〜11、15:10 「私は父にとどまり、父は私にとどまる」

                  
*ヨハネ用語である「とどまる」について μενειν(ネメイン)

何故、ヨハネはこの「とどまる」に注目したかを考えてみますと、それには

様々な理由が考えられますが、最初の出会いの時から、最後に至るまでのイ

エスとの交わりにおいて、イエス自身がたびたび発せられたことばであり、

イエス自身のことばに基づくからという理由が浮かび上がって来ます。ヨハ

ネにとって忘れられないイエスらしいことばのひとつであり、ヨハネの信仰

においてのキーワードの一つであったから、とも説明できましょう。


共観福音書の用例

@マタイ26:38、マルコ14:34

 ゲッセマネ 「ここにとどまって、私と一緒に目をさましていなさい」

Aルカ19:5 

 ザケオに対して 「今日、私はあなたの家にとどまる(泊る)」

Bルカ24:29

 エマオでの二人の弟子たち 「主よ、私たちと一緒にとどまって下さい」

Cルカ22:28〜30

 「あなた方は、私の数々の試練の時、絶えず、一緒に踏みとどまった」

Dマタイ28:20 

 「世の終わりまで、あなたがたとともにいる」


共観福音書とヨハネ福音書の比較

@共観福音書では、イエスとともに「とどまる」と言うことは、具体的なも

のとして描かれています。すなわち、イエスの祈り、苦しみ、試練、働きの

時をともにすることを表しています。ヨハネでは、これをさらに深め、イエ

スと存在そのものをともにすること、すなわち、イエスと内的な生命を共有

することの意味になっています。

A共観福音書では、身体的、時間的、空間的なことがらであった「とどまる」

が、ヨハネでは私たちの存在の構成の要素となり、永続的なもの、平和的な

ものになっています。

B共観福音書では、イエスに従い、イエスのように行ない、イエスにみなら

うことについて語りますが、ヨハネは「キリストの中にとどまる。イエスを

住まいとする=父を見る」という観想的な面を強調しています。


⇒とどまる それは父とイエスの関係 それはイエスと私たちの関係


41節〜42節 アンドレの兄弟 シモンとの出会い


*イエスは、アンドレたちに連れて来られてきたシモンを「見つめて」

ケファ(ギリシア語で岩の意味:ラテン語でペトロ)という新しい名を

与えられます。名前は聖書においてはその人自身の本質、信仰を現すもの

として考えられており、アブラムにアブラハム、ヤコブにイスラエルという

名が与えられたように、神との新しい関係に入ったことを意味しています。


⇒私たちも洗礼の時に新しい名前を戴きました!


*皆さん、この2006年の聖書研究会の第一回にヨハネ1:35〜42で

スタートすることは、とても意義深いことだと思います。私自身にとって、

最も好きな福音書がヨハネであり、また生涯をかけてこのヨハネ福音書を研

究し続けたいと思っていることはたびたび申し上げておりますが、その理由

を端的に説明してくれるのが今日の箇所でした。


   [分かち合いと祈りのヒント]

1.あなたとイエスの最初の出会いはいつ、どこで、だれの導きで、どのよ

  うなことがありましたか?

2.あなたが、イエスに最初に語りかけたことは、どんなことでしたか?

3.イエスのことばであなたが最初に意識したことばはどんなことでしたか?

4.あなたとイエスはいつ、どこで、一緒にいましたか?

5.あなたとイエスを結ぶキーワードは何ですか?

6.あなたはイエスと出会って、どのように変わりましたか?

7.あなたは、この一年、どのようにイエスを捜し求めますか?





        









稲川神父様のお話

                 

 年間第3主日 マルコ1:14〜20(1月22日の福音朗読)  

 年間第3主日はイエス様のメシアとしての一日が語られます。マルコ福音書はイエス様の宣

教の第一声を「@時は満ちた。A神の国は近づいた。B悔い改めてC福音を信じなさい」とい

う4つのキーワードにまとめています。実に福音宣教という今日、私たちが頻繁に使っている

教会用語はマルコ福音書の用語だったのです。

 
 この宣教の第一声と結ばれている出来事が語られています。それは4人の人々を弟子とする

ことでした。つまり、イエス様の福音宣教と召命は深く結ばれていることなのです。イエス様

は福音宣教という行いを最初からチームワークすなわち教会としての使命と考えておられたの

です。

 
 時とはギリシア語でクロノスという言葉とカイロスという言葉があります。


クロノスは一秒、一分、一時間というように数えられる時間を意味しますが、カイロスは決定

的な出来事、自分の人生において大きな意味のある出来事のあった時を意味するものです。時

は精神的な意味を持つものなのです。

 
 かつて日本では「秋」という字を「とき」と読んでいました。秋は一年の実りの時です。し

かし、台風がおそってきてその収穫のすべてを失ってしまうこともありました。それゆえ、実

ったお米をどの時点で刈り取るのか、大切なタイミングを失えば、無に帰してしまうのです。

 
 イエス様は時が満ちたと叫ばれましたが、それは2000年前のことではなく、常に福音を

耳にする「今」のことなのです。また後ででは間に合わないのです。神の国は近づいたとは、

「神と人、人と人とがこれまでなかった親密で
深い関係の中に生きる」時が来たことを意味し

ているのです。

 
 悔い改めという言葉はギリシア語では「メタノイア」という言葉です。メタはこれまでのも

のを超えた、すなわち新しいという意味を持ち、ノイアとはノモス、すなわち思い、考え、心

を意味する語です。メタノイアは「新しい心となること」、すなわち神と人とに心を向けるこ

とを意味するのです。どうすれば と
もすれば自分のことで精一杯になりがちな私たちの心が

神と人とに向かって行けるのでしょうか?そのために福音すなわちイエス様の言葉、行い、存

在に
出会って、あの4人の弟子たちのように立ち上がってついて行かなければならないのです




        









稲川神父様のお話


 年間第4主日 マルコ1:21〜28(1月29日の福音朗読 

 年間第4主日は先週に引き続きイエス様のメシアとしての一日が語られます

ガリラヤ湖畔にて、宣教の第一声を宣し、4人の漁師を弟子として召しだされたイエス様はカ

ファルナウム(ガリラヤ地方の中心地)において、安息日という旧約時代・ユダヤ人の信仰の

中心となる日に会堂というこれまた旧約時代・ユダヤ人の信仰の中心となる場所において、み

ずからのメシアとしての姿を現し、教えを宣べられます。

 
 その姿、その語られた内容はユダヤ人たちに大きな驚きを引き起こします。


それはイエス様の語られたこと・語り方が「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお

教えになった」からであると聖書は記しています。当時のユダヤ人たちの信仰生活は「安息日

・会堂・律法」という「場所・時間・掟」に縛られたものでした。イエス様はそれらのものを

はるかに超える神の愛の力強さに満ちた教えを語られたのです。そして、それはユダヤ人たち

に感動を引き起こし、思わず聞き入ってしまい、また賛同せざるをえない説得力と迫力に満ち

ており、「権威ある者」の言葉として受け留めたのです。

 
 そこに唐突に悪霊が叫びだします。「ナザレのイエス・・・・神の聖者」とイエス様が誰である

か敵対者である悪霊さえもイエス様を認めているのです。これはマルコ福音書の特長の一つだ

と思います。まだ民衆がこの方を誰であるかを悟る前に敵対者である悪霊がイエス様を「神の

子・神の聖者」として気がついているのです。イエス様において神の国は到来しています。す

なわち人間の世界を支配している狂気がイエス様によって解放され、神の愛による統治が力強

く始まっているのです。イエス様のことばによってこの悪霊に取り付かれている人は解放され

ました。

 
 この有様を見ていた人々は驚きます。四人の弟子たちはその現場にいてイエス様と人々の間

にあって何を感じたことでしょうか?人間の世界を支配している狂気は今もこの世界に残って

います。と同時にイエス様によってその解放の時が始まっているのです。やがて、イエス様の

弟子たちは「悪霊を追い払う権能」を与えられ、人々の中に派遣されて行きます。「イエス様

の名によって命じると悪霊さえも従います」と弟子たちは報告しています。私たちの心も私た

ち自身のものでありながら自分の力や努力だけでは変えられません。イエス様とともにある者

だけがイエス様の力によって「心をあらためる」ことが出来るのではないでしょうか?