聖書研究




稲川神父様のお話



 四旬節第1主日 マルコ1:12〜15 (3月5日の福音朗読)

いよいよ四旬節が始まりました。この40日はノアの方舟の出来事、40年の荒野の旅、イエス

様の
40日の荒野での試練と私たちを結びつけるのです。

マルコ福音書はマタイ・ルカと異なり、ごく短い報告にとどめています。しかし、その特長と

して「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」という記述がマルコ福音書

だけに記されているのです。これはイエス様の洗礼と荒野の試練が第二のエジプト脱出として

描かれているのです。



 最初のエジプト脱出ではイスラエルの民は野獣の住む荒野に導かれ、
40年間の間そこに留ま

り、試みを受けました(申命記1〜4章、32:10)。ヨルダン川の水から上がったイエス

様にとっては「荒野」は「野獣と住み、天使に仕えられる」場所でした。



 それはイザヤ11:6に記されているメシアの時の到来を暗示しています。「狼は子羊ととも

に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も

熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛も等しく干し草を食らう。乳飲み子が毒蛇

の穴にたわむれ、幼子は蝮の巣に手を入れる」。イエス様は新しい天と地の秩序をもたらす方

なのです。



 イエス様がともにおられれば、荒野も天使の仕えるところとなるのです。

私たちの世界にもサタンや野獣が住んでいるのではないでしょうか。毎日の新聞やニュース

には数多くの不幸な出来事や犯罪が満ちています。さらには私たちの心の中にも、時としてサ

タンや野獣が忍び寄って来ることがあります。



 自分の弱さを知っているならば、今こそイエス様の呼びかけである「福音」に耳を傾けなけれ

ばなりません。今がその時なのです。四旬節は元来、洗礼志願者の準備期間が発展して、現在

の形になったものです。毎年、この時期があるのは、既に洗礼を受けている人々が自分の信仰

の出発点である洗礼を新たに受ける気持ちで過ごすことが大切なのです。



 もう一度、学び直すチャンスなのです。この40日間を漠然と過ごしてしまうのではなく、イ

エス様とともに荒野であれ、野獣がいるところであれ、ともに
歩んでゆくのです。

「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じる」時が来ているのです。





        









稲川神父様のお話



 四旬節第2主日  マルコ9:2〜10 【3月12日の福音朗読)

毎年、四旬節の第二主日には、ご変容の箇所が朗読されます。その場所はエスドレロン平野

の東部にぽつんと立っているタボル山がご変容の行われた山と言われています。今日でもタボ

ル山の頂上にはご変容を記念する教会が
建っています。


 その聖堂の内部に四つの壁にモザイク画が飾られています。それはイエス様の四つの姿が描か

れています。小羊の姿、ご聖体の姿、十字架の姿、復活の姿だったと思います。
 


 イエス様が十字架にかかって死ななければならないこと、しかし、3日目に復活することを弟

子たちに話されましたが、弟子たちはこれを受けとめることができませんでした。それゆえ、

三人の弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山に登りました。そして、そこで、人の子であ

るイエス様が「神の子」としての栄光、すなわち十字架の後に現れる復活の栄光の姿をお見せ

になったのです。その素晴らしさは、ペトロのことばに表れているように「もう、どこにも


きたくない、ここに留まるために家を建てましょう」と言わしめるほどでした。



 しかし、雲の中から響いた声は、「これは私の愛する子、これに聞き、従いなさい」という内

容でした。このことばは神様の救いの計画は十字架にあり、イエス様は十字架を負ってご自分

の後に従いなさいと命じられています。



このご変容の出来事の大切なメッセージは、
 

 @イエス様は様々な姿で私たちの前におられる。


 A私たちは三人の弟子たちのようにイエス様の素晴らしい栄光の姿を垣間見ることがある。

 Bしかし、私たちはイエス様の素晴らしさの全体をまだ知らない。

 Cそれゆえに、私たちはさらに前に進まなければならない。

 Dイエス様が十字架を避けなかったように、私たちも自分の十字架を引き受けなければなら   
  
  ない。



  マルコは特にイエス様の白さを強調しています。私たちの心の中にある闇、かげりを  

  照らす光であるイエス様と今日新たに出会いましょう!





        









稲川神父様のお話



四旬節第3主日 ヨハネ福音書 二章十三〜二十五節(3月19日の福音朗読)

13:ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。

14:
そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者

 たちを御覧になった。

15:イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金を まき散ら

 し、その台を倒し、

16:鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。

 わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

17:弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書 いてあるのを

 思い出した。


18:ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるを

 わたしたちに見せるつもりか」と言った。


19:イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」

20:それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あな

 たは三日で建て直すのか」と言った。
 

21:
イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。

22:イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを

 思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

23:
イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多く

 の人がイエスの名を信じた。


24:しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを

 知っておられ、


25:人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。

 イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。


 [四旬節第三主日の朗読箇所について]

四旬節は元来、復活徹夜祭に洗礼を受ける人たちのための準備期間として始まり、次第に発

展して現在の形に整ったものです。キリスト教的生活の中では、エウカリスチアを中心とする

秘跡によって神の愛が注がれ、私たちの回心と賛美のわざが神に奉献されるのです。その基礎

となるものが@「使徒信条」を土台とする信仰生活、A「主の祈り」を基盤とする祈りの生活

、B「十のことば」と聖書で表現されている「神の十戒」を規範とする神の義に基づいた生活

です。



 四旬節第三主日には、第一朗読として出エジプト記20章1〜17節の十戒の記事が読まれ、

第二朗読ではTコリント書1章22〜25節の十字架につけられたメシアの記事が朗読され、

福音朗読にはヨハネ2章13〜25節のイエスによる神殿の清めの出来事が朗読されます。



 十戒は単なる生活の規範、道徳律ではありません。それは神がイスラエルを愛して、これを選

んだという愛の宣言(第一朗読の冒頭句)、神の提示する契約の条項(出エ19:5)、神の

民として選ばれた者の神に対する高貴な奉仕、そして神の祝福を受ける条件なのです。第一戒

から第三戒までは唯一の神への信仰と礼拝が求められること=神の義にかなう生き方が第四戒

から第十戒までの掟の中に実現することなのです。つまり、イスラエルの信仰の特色とは、神

への信心、信仰は必ず生き方に表われるものという信仰と生活の一致が求められていることな

のです。



 単に足しげく神殿に詣でること以上に毎日の生活の中で神様の望むあわれみと正義を少しでも

実現して行くことなのです。この精神は新約のイエス・キリストの教えた「主の祈り」の精神

につながっています。


[
福音の研究]



 1.「ユダヤ人の過越祭が近づいたので…」(13節)


 共観福音書においては、過越祭について触れる記述はイエス様の受難の時だけです。ヨハネ福

音書においてはイエス様の公生活のうち三回
(三年)の過越祭について記述があります。今日の

箇所は公生活における最初の過越祭のこととヨハネは位置づけています。マタイ、マルコ、ル

カでは同じ出来事が受難の直前のエルサレムでの出来事として報告しています。過越祭につい

ては出エジプト記12:1〜14に記されています。ヨハネ福音書の1章では洗礼者ヨハネが

イエス様を指して「神の子羊」と呼んでおり、ヨハネ福音書ではその第一章からイエス・キリ

ストの出来事の意味はすべて、十字架と復活に関係していることを強調しています。



 2.「神殿の境内で…ご覧になり…追い出された」(14〜16節)



 イスラエルの預言者たちは、民が契約の道から離れた時、いつも神の掟を思い起こさせ、厳し

い言葉と激越な行動によって真の回心を迫っていたように、イエス様もこの預言者的な行動を

起こして、神殿の清めを行ない、それによって神の家の神聖さと民の回心をお求めになります



  
  ルカ福音 19:45〜46 「売る人々を外に追い出す」だけ


 マタイ福音21:12〜17 「売買するすべての人を追い出し、両替屋の


                        机と鳩を売る人の腰掛けをたおし」と徹底します。

 マルコ福音11:11,15〜17 さらに厳しく「境内を通って品物を持ち運ぶことを

                 ゆるさず」、さらにマタイやルカにはな
い「私の家は

                 すべての国民(民族)
から祈りの家と呼ばれる」と

                 強調しています。



 これらの共観福音書の記事はマラキ3:1〜3の記事を連想させると思います。ところで、ヨ

ハネの記述はもっと細かく、かつニュアンスも十字架と復活に関わるものとなっています。エ

レミヤ書7:1〜14の神殿説教「正義なき形だけの礼拝を憎む主」の姿に通じるイエス様の

ことばとこの行ないに注目してみましょう!



 牛や羊を売る人たちに対して:

 縄で鞭を作り、牛や羊を境内から追い出します。牛や羊は神殿への捧げ物として、高価なもの

でした。神殿の祭司たちはこれらの捧げ物とされた生け贄の
一部を神殿で捧げ、残りの肉を

市場におろして金儲けをしていました。


 
 両替をしている人たちに対して:

 当時、イスラエル民族はローマ帝国の版図の中のいろいろな町や地方に住んでいました(ディ

アスポラのユダヤ人)。彼らは過越祭の時にエルサレムを目指して巡礼にやってきましたが神

殿税を納めるにあたって、シェケルというイスラエルの通貨に両替をしなければなりませんで

した。そのために当時は神殿の中に両替商が多くいたのです。交換のレートは両替商の言いな

りで行われますからこの両替商の中にはあくどい儲けをしていた人々もいたことでしょう。イ

エス様はこれらの両替商に対して、大変厳しい態度です。彼らの机をひっくり返してしまいま

す。お金には名前が書いてありませんから、どれが誰のお金かわからなくなってしまいます。

(牛や羊は追い出されても元の持ち主のもとに返ることが可能でしょうが、お金となるとそう

は行きません)



 鳩を売る人たちに対して:

 鳩はかつてマリア様やヨゼフ様たちがイエス様の奉献の捧げ物(ルカ2:22〜24)として

登場したように、貧しい人たち、日々の生活に追われているような庶民たちのささやかな捧げ

物でした。イエス様はこれらのささやかな商売を営んでいる人たちには、激越な振る舞いをせ

ず、言葉で注意を与えています。「それらを外に出しなさい。わたしの父の家を商売の家にし

てはならない」と諭しておられます。



 このようにヨハネ福音書の記述を詳しく見てみると、イエス様は単に激情にかられ、怒りにま

かせてこのような行動をしたのではないことがうかがえます。



 イエス様は心底、いきどおりを感じながらもあくどい人たちにはきびしく、生活の糧を得るた

めに細々とした商売をしている人たちには、彼らの良心に訴えることで回心を求めておられま

す。ヨハネ福音書は「わたしの父の家」と呼ぶことでこの清めの動機がイエス様の御父への愛

であること、また御父への愛のために十字架という死をも辞さないことを「この神殿を壊して

みよ、3日で建て直す」と宣言しています。



 3.「弟子たちはこれを見て『あなたの家を思う熱心が』…を思い出した」(17節)


 これは詩篇69:10の引用です。詩篇69はメシア預言の詩と呼ばれ、受難がテーマとなっ

ており、新約聖書のなかでたびたび引用されています。



マタイ27:48「酸っぱいぶどう酒を含ませ、葦の棒につけて、イエスに飲ませようとした

         」


ヨハネ15:25「人々は理由なしにわたしを憎んだ」

ヨハネ19:28「わたしは渇く」

使徒行録1:20「彼の宿営は荒れ果てよ、そこに住む者は一人もいなくなれ」

ローマ 15:3「あなたをそしる者のそしりが私の上にふりかかった」 


 弟子たちがイエス様のこのような行ないを見て、このようなことは当時のユダヤ人に憎まれ、

とりわけ神殿の祭司長たち、長老たちがイエス様をイスラエルに災いをもたらす人物と理解す

るであろうという不安を抱かせたことだと思います。事実、イエス様が逮捕され裁判にかけら

れた時、「多くの偽証人が出たにもかかわらず、証拠が見つからなかった。最後に二人の者が

出てきて『この人はわたしは神殿を打ち壊し、三日のうちにそれを建て直すことが出来る』と

言った」という告発がなされています(マタイ26:29〜68)。



4.「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(18〜20節)


 「壊す」と「建て直す」ということを一組の表現として預言者エレミヤはたびたび用いていま

す。(1:10、18:7〜10、24:6、42:10、
45:4)

イエス様のこのことばや行ないはエレミヤの預言を実現するものとなりました。

すなわち「建て直す」という用語は「起き上がる」(エゲイロー)という復活を意味すること

ばなのです。ヨハネ福音書では2:19,20,22で使われています。イエス様が手を取っ

て起こされると死んでいた少女が起き上がる(生き返る)という記事がマルコ5:355〜4

3に登場するように
「起き上がる」(エゲイロー)は復活を示す用語なのです。


 5.「イエスの言われる神殿とはご自分の体…」(21〜22節)


 新しい神殿であるイエス:

 @御父の住まうところ、完全ないけにえの場所(ヘブライ書9〜10章)

 A神の家:ヨハネ1:50と創世記28:16〜18

 B神の祝福の泉:ヨハネ7:38、19:34と黙示録22:1〜2


 ヨハネ福音書が書かれた頃、エルサレムの神殿はローマの軍隊によって徹底的に破壊され今日

に至っており、嘆きの壁と呼ばれる一部分しか当時の神殿の姿は残っていません。
(紀元70年

ティトゥス皇帝
) この神殿崩壊の事件はユダヤ人にとってもキリスト者にとっても重大な事

件でした。聖所=神殿=神と民が出会う場=神がその名を置くために選ばれた建物が破壊され

てしまったのです。



 この出来事は、かえってキリスト者に新しい神殿理解をもたらすことになりました。すなわち

、救いはユダヤ民族の枠の中に限られているものではなく、イエス・キリストこそ新しい神殿

であり、私たちと神が出会う場なのです。それまで、初代教会のキリスト者の多くはユダヤ人

でしたから、どうしてもユダヤ民族が優先される救いを考えてしまいがちでしたが、そのよう

な小さな考え方は神殿を失ったことでかえって考え方が福音的に成長したのです。



 イエス様の死の時、神殿の幕が真っ二つに裂けました。それは古き神殿にはもはや神はおらず

、復活したイエス様において真理と霊による新しい礼拝が始まることを意味します。復活した

イエス様が「必ずそこにわたしがいる」と約束されたキリスト者の共同体=教会こそ、復活し

たイエスの体であり、新しい神殿なのです。(エフェゾ2:11〜17) ことばを変えて言

えば、イエス様の生き方、人間性こそ新しい礼拝の場なのです。イエス様の生き方とは御父と

人間に対する徹底的、解放的な愛を貫いた生き方なのです。このイエス様の生き方にあずかる

ためには、回心、新しい人となること、新しい共同体となることが求められるのです。



 [わかちあい・祈りのヒント]

1.私たちは教会を何のための場所にしていますか?


   いつのまにか、自分中心の利益を求めるための場所にしてしまっているのでは

  ないでしょうか?



2.私たちは教会を建物と考えてしまいがちですが、初代教会の人たちは300年間

 (コンスタンティヌス皇帝がキリスト教を公認するまで)、建物
としての教会は

  もっていませんでした。それでも生き生きと活動できたの
は何故でしょうか? 


3.イエス様は私たちの心の中から何を追い出されようとしておられますか?

  またあなたは自分の心から追い出したいものが何かありますか?



4.今日の福音書の中に「イエスのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を

  信じたが、イエスご自身は彼らを信用されなかった」(23節)と
ありますが、

 「信仰」とは私たちがイエス様を信じるだけでは足りないので
はないでしょうか?

  わたしたちの「信仰」とはイエス様が私たちを信じ
てくださるようにならなければ、

  本物ではないのではないでしょうか! 


   自分の都合や利益のためにイエス様を求めてもイエス様は知っておられます。

  私たちは何のためにイエス様を信じているのか、洗礼を受けたので
しょうか





        









稲川神父様のお話



 四旬節第4主日 ヨハネ3:14〜21 (3月26日の福音朗読)

 四旬節も早くも第四主日を迎えることとなりました。こんどの日曜日の福音はヨハネ3章のニ

コデモとの対話です。その次の日曜日にはヨハネ
12章の「一粒の麦」について語られてゆきま

す。この二つの日曜日の福音は密接な関係があるのです。



 さて、ヨハネ3章に登場するニコデモという人物についてまず考えて見ましょう。この人はユ

ダヤの最高議会サンヘドリンのメンバーであり元老の一人でした。さらには映画「ベン・ハー

」の中で主人公のパトロンとなる人物のモデルで、大変な資産家でした。ある学者の研究によ

れば、ニコデモの財産は当時のユダヤ人の全人口を
6ヶ月間養うほどのできるものであったと言

われております。つまり彼は絶大な権力と財力を持つ有力者だったのです。誰もが彼を尊敬し

、彼のように成功者になりたいとあこがれる人物だったのです。



 彼はひそかにイエス様のもとを訪ねます。「この方はメシアではないか?」という期待と疑問

が彼の中にあったからです。ニコデモは自分自身の目でそれを確かめようとやって来たのです

。これまでも多くの人物がメシアを名乗り、イスラエルの解放すなわちローマの支配からの独

立とイスラエルの繁栄を広言し
人々を扇動する者がいたからです。しかし、彼らは政治的な野

心家であったり
過激なテロリストに過ぎなかったりで、すぐにそれらのメッキははがれ、滅ん

でゆきました。しかし、「ナザレのイエス」はどうもそれらの胡乱な人物とは違うという気持

ちがニコデモを突き動かしたのです。



 「ナザレのイエス」は元老院のメンバーである自分が訪ねて来ても驚きもせず、おもねること

も媚を売ることもねだることもしません。ニコデモを神の前には「無力な一人の人間」として

受け入れています。「人は新たに生まれなければ永遠の命に入れない」と語るのです。ニコデ

モはユダヤ人の律法的な考え方によれば、神の祝福を受けている人であり、必ず救われる人で

した。イエス様はこの世での権力や財力は何の保証にもならないことを告げられます。



 イエス様の行おうとする革命は剣や政治、財によるものではありません。暴力や破壊、思想闘

争のようなやり方ではありません。神の子が人の子としての生き方を徹底的に示すというやり

方です。それゆえに「人の子は(十字架に)上げられなければならない」のです。