聖書研究




稲川神父様のお話

 

四旬節第五主日 B年 ヨハネ十二章二十〜三十三節 (4月2日の朗読箇所


 20:さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギ

  リシア人がいた。


 21:彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエス

  にお目にかかりたいのです」と頼んだ。


 22:
フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに
話した。

 23:
イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。


 24:はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。

  だが、死ねば、多くの実を結ぶ。


 25:自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って

  永遠の命に至る。


 26:わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、

  わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者が
いれば、父はその人を大切

  にしてくださる。」


 27:「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってくださ

   い』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。


 28:父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。

   「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」

 29:そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは

   「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。

 30:イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなた

  がたのためだ。


 31:今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。

 32:わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

 33:イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのであ

  る。



[四旬節 第五主日の朗読箇所について]

四旬節も第五主日を迎えます。いよいよその次の主日から聖週間が始まります。

従って、四旬節第五主日は言わば四旬節の締めくくりの日曜日ということになり、大切な

箇所が朗読されます。第一朗読ではエレミヤ書31:31:〜34の新しい契約についての

預言が、答唱詩篇では詩篇51(ミゼレレとして150の詩篇の中でも有名なもののひとつ

です)。第二朗読ではヘブライ書5:7〜9のキリストの奉献、そして福音朗読ではヨハネ

12:20〜33の一粒の麦といういずれもキリストの受難と復活に密接な関係のある大切な

メッセージが語られるのです。



*新しい契約の特長 新しい契約の仲介者は新しいアダム、モーゼである

                イエス=「苦しむ主のしもべ」である。

  旧 約          新 約
契約の内容  YHWHを主、イスラエルは民   新しい神の民
いけにえ  雄牛の血   イエスの血、イエス自身
 掟   石の板に刻まれた掟    心に刻まれた法
仲介者  モーゼ   イエス
名 称  聖なる民、祭司の民
 宝の民 
   旧約の名称に加えて
  神の家族(マルコ
  牧者と羊(ヨハネ)
  師と弟子(マタイ)
  キリストの体(パウロ)
  ぶどうの木と枝(ヨハネ)

[福音の研究]

ヨハネ福音の12章は「栄光の書」(ヨハネ1〜12章)の締めくくりの部分です。この

1〜12章においてはイエスの公生活(宣教の活動)が七つのしるしを中心としてまとめら

れており、13〜20章はイエスの最後の一週間が多くの記述によって描かれております。

ヨハネの意図はこのイエスの受難と復活の意味を解き明かすことに集約されていると

言っても過言ではありません。



. 場所


 このエピソードが語られる場所はエルサレムです。イエスは御自分の死を迎える場所として、

エルサレム以外の場所は考えれませんでした。何故なら、
エルサレムは、神が自らの名を現す

ために選ばれた地であり、シオンと呼ばれ、
万民の賛える聖地です。神はイエスを通して再び

、御自分の栄光を現わすためにエルサレムでイエスは十字架に上られるのです。



. 異邦人が教えを請う。

 祭りにやって来た人々の中にギリシア人がおり、イエスに会いたいと申し出てきます。これは

ソロモン王のエピソードを連想させるとともに第二イザヤの預言、すなわち救いはイスラエル

に限られるものではなく、万民、全人類におよぶものという旧約から新約への変化がイエスの

出来事によって実現してゆくのです。



. 23節〜33節の構造

    23節 テーマの告知 人の子が栄光を受ける時が来た    

  ┌──A 24節 一粒の麦が地に落ちて死ななければ
  │                 
  │
  │ ┌──B 25節 この世で自分の命を憎む者は
  │ │
  │ │
  │ │ ┌──C 26節 もし私に仕えるならば父はその人を大切にする(栄光を与える)
  │ │ │
  │ │ │
  │ │ │    D 27節 今、私の心は騒いでいる。しかし、このためにこそ、この
  │ │ │            時を迎えた。
  │ │ │    
  │ │ └──C 28節 父よ、栄光を現わしてください。私は栄光を現わした、
  │ │                さらに栄光を現わす。
  │ │
  │ └──B 31節 今、この世の裁きである。いまこそこの世のかしらが追い出
  │               される。
  │
  └──A 32〜33節 私が地上から上げられる時、すべての人を自分のもとに
             引きよせる。これはイエスがご自分がどんな死をとげる
             かを示そうとして語ったのである。

*29〜30節は、後世の加筆と言われている箇所

 雷がなった。いや天使が話した。これらはあなたがたのため。

*23節〜33節のメッセージ

@イエスの死は栄光

地に落ちる
人に踏みつけにされる。 ─┐
    │ 泥にまみれる。    │─→ からこそ、多くの
    │ 埋もれる。   │ 実を結ぶ。
    │ 捨てられる。 ─┘   │
    │   │
    │   ↓
    │ 一粒の麦にとっては
イエスは上げられる 
栄光であり、誉れである

     イエスの死もそのような意味を持つ。即ち、イエスの生命

       は新しいアダムとして、全人類の生命と同じ重みを持つ。

       イエスのみ旨を徹底して生きる結果としての死ゆえに、神

       は、イエスゆえにすべての人類をゆるし、愛する。
                      │
                      ↓

       正義、常識を超える「愛」の勝利こそ神の栄光!


Aこの世で自分の生命を憎む者=惜しまぬ者=あけわたす者=解放する者

       自分の財産 ──┐
   │
            名誉         │
   │
            自由           │ 神から戴いたものを神の愛する
   │ 「人間」=「隣人」のために
            タレント     │─→ 用いること、与えること、
   │ 活用すること。
            時     │
   │

            生命

──┘


 そうしない者、他の人をおしのけて自分を優先する  ──┐
   │
           他の人を利用して自分を優先する       │ ような態度は 
   │─→ 神からきらわれる
           他の人の苦しみに目をつぶる      │ 裁きを受ける。
   │
           他の人の受けている不正に沈黙する ──┘


Bもし私に仕えるならば、父は大切にしてくださる(誉をあたえる)

 「誉と栄光」=天上の清さ、聖、光、力

  復活=上げられる=栄光を受ける。

  使徒行録1:9〜11 キリストは人間にして神であり、神秘的な

 
雲に包まれて「上げられた」。

 Tテモテ3:16 「栄光のうちに天に上げられた」。

 Tペトロ1:21 「神はキリストを死者のうちからよみがえらせて栄光を与えた」。

 使徒行録3:13 「そのしもべイエスに栄光を与えた」。


C私の心は騒いでいる。(ヨハネ的なゲッセマネ)

 栄光に入るために受けなければならない苦しみ、通らなければならない死、死に対する恐れ、

「無意味に対する怖れ」のため人間イエスの心は苦し
む。


「父よ、私をこの時から救って下さい。しかし、そのために私はこの時を迎えたのです」。 

 イエスのこの言葉は論理的には矛盾する表現ですが
他の福音書におけるゲッセマネでのイエ

 スの祈りにも同じパターンが
見られます。「父よ、できればこの杯を遠ざけて下さい。しか

 し、私の
思いのままではなく、あなたのみ心のままに」。


.がいるところに、私に仕える人もいる」

        キリスト     キリストに仕える人

 このエピソードにおいて二人の弟子の存在と働きは大切です。

  この二人の名前はヨハネ福音書の1章に登場するアンドレアとフィリッポです。
  
 そしてこの二人は1章においてもペトロやナタナエル
をキリストに引き会わせると大切な

 役割を果たしておりますが、12章に
おいてもギリシア人たちはこの二人を通してキリスト

 に近づこうとして
います。


 弟子とは:ともにいる人   寝起きをともにする。

          働く人      イエスの命じること、望むことを行う。

          喜びに留まる人  イエスとの生命的なつながりを持つ人。

          証人       イエスの出来事、教えについて証しする。



[わかちあい・祈りのヒント]

1.一粒の麦が私たちのこころの中にまかれました。その麦が成長し、

  実るために、私たちがしなければならないのは、どの
ようなこと

  でしょうか?


2.自分の命を愛するとは、どのようなことでしょうか?

    自分の命を憎むとは、どのようなことでしょうか?

3.私たちは、いつもキリストに従っていますか?それとも都合の

  よい時だけ、自分の願いをかなえて欲しい時だけ?


4.何故、ギリシア人たちはアンドレアとフィリッポに声をかけた

  でしょうか? 二人の人柄や表情、気配りに何か人を引きつ
ける

  ものがあったのでしょうか?







            





4月9日受難の主日(枝の主日)と4月16日復活の主日は
稲川神父様のお話はお休みになります







稲川神父様のお話


活節第2主日 ヨハネ20:19〜31(4月23日の福音朗読)

 復活節は聖霊降臨祭まで続く典礼季節であり、復活にまつわるさまざまな記述が朗読されて

ゆきます。特に第一朗読は特別に使徒行録が継続的に朗読されてゆき、初代教会の生き生きと

した活動とその発展が毎年、この時期に朗読されます。教会は「いつの時代も初代教会」なの

です。この精神はとても大切なことで、「いつも復活した主キリストが私たちとともにいる」

から「生き生きと活動できる」のだということを忘れてはならないと思います。



 さて、今日の福音はヨハネ20章から「週の初めの日」すなわち日曜日に二度に渡って弟子

たちのところに現れたイエス様と弟子たちのエピソードが語られています。最初の出現では

トマスがいませんでした。それゆえ、トマスはイエス様の出現を仲間の弟子たちから聞いても

受け入れることができませんでした。彼もまたイエス様に会いたいと願っていたのに、それが

かなわなかったことから来る寂しさゆえに素直になれず、頑な心になっていたのでしょう。



 「あなたがたに平和があるように」と復活したイエス様の登場の時にこのことばが度々繰り

返されます。これはミサのことばの中に残されているほどイエス様の復活を信じるキーワード

となっています。週の初めの日すなわち日曜日を「主の日」と呼び、仲間とともに集まり、

「主のことば」である「福音」を聞き、「主が残された不思議なわざ」の記念である「パンを

裂く儀式」を行なう時、
主キリストは「みことば」と「パン」の姿で私たちとともにいてくだ

さることゆえに私たちキリスト者はキリストであるイエス様を信じ続けること、仲間を信じて

助け合うことが出来るのです。



 私たちの信仰は一人で支えることは出来ません。ミサに参加しないでいるキリスト者はトマ

スと同じ寂しさ、仲間のことばに素直に従えない弱さを感じることでしょう。福音記者ヨハネ

はこのことを強調するためにイエス様自身の口を通して「見ないのに信じる人は幸いである」

と教えて下さったのです。



 復活したイエス様が私たちとともにいてくださるしるし、それはミサを通して表されます。

私たちが心を込めて捧げるミサであればあるほど、初めてミサに参加しておられる人々にもそ

のことは伝わると思います。「何故だろう、この
集いには他のところでは感じることの出来な

い、神聖さ、静けさ、穏やかさ、和やかさ、平和、喜びがある」と





            









稲川神父様のお話


復活節第3主日 ルカ24:35〜48 (4月30日の福音朗読)

 復活節の主日においては四つの福音書の様々な復活についての記述が朗読されます。さて、

今日はルカ福音書です。この箇所の直前には有名なエマオに向かう二人の弟子にイエス様が現

れたあのエピソードが語られています。彼らが急ぎエルサレムにいる仲間の弟子たちのところ

に戻って、自分たちが体験した出来事を語っているその真ん中に再び、イエス様が現れたの

です。



 復活したイエス様の出現の出来事を語る福音書を調べてみるとあることに気がつきます。

それはイエス様の受難と死はイエス様の敵対者である人々、民衆もそれを体験していたのです

が、復活したイエス様葉イエス様を信じる人々にしか現れません。その理由についてはいろい

ろ考えられますが、マタイ福音書28:11〜15に語られているように信じようとしない人

たちはいかなる理由をつけてでも復活を認めようとしないからです。



 イエス様を信じている弟子たちですら最初はイエス様を見ても気がつかなかったり(エマオ

の弟子たち)、現れたイエス様を亡霊だと思っておびえてしまうのです。つまり弟子たちの体

は生きていたのですが心は墓に閉ざされていた状態だったのです。復活されたイエス様は明る

く平和と希望に満ちた光のように弟子たちの心の闇に差し込んできます。ようやく弟子たちは

イエス様を喜びをもって受け入れます。



 復活されたイエス様は弟子たちに聖書のさまざまな箇所を用いて説明されます。これはルカ

福音書における復活したイエス様が出現する時の特長の一つです。それは今日の私たちにも同

じことが呼びかけられているのです。すなわち、
復活したイエス様に出会いたいならば、その

手がかりは「聖書」のことばなのです。聖書はイエス様によって解き明かされるとき、単なる

文字から「私たちを生かすみことば」となるのです。



 ルカは福音書に続いて初代教会の活動の様子を「使徒行録」という書物にまとめました。

その使徒行録においては直接イエス様を見たことのない人々が洗礼により「弟子たち」と呼ば

れています。弟子たちはイエス様の出来事の証人なのです。現代の私たちも私たちの信仰体験

を通して、イエス様を証しするために呼ばれた弟子であり、証人なのです。