聖書研究





稲川神父様のお話


復活節第4主日 ヨハネ10:11〜18 (2006年5月7日の福音朗読) 

 毎年、復活節の第四主日にはヨハネ10章の「よき羊飼い」について語るキリストの

ことばが朗読されます。羊と牧者の姿は当時のイスラエルの人々には日常的な風景でした。

私たちには考えられないほど、羊と牧者は親密な関係です。今でもベドウィンと呼ばれる

遊牧民がパレスチナに住んでいますが、彼らは政府が与えたアパートに自分たちではなく

もっとも大切なものである「羊」をアパートに入れ、自分たちは相変わらずテントで暮ら

すということをするほど羊をかわいがり、大切に思っているのです。



 羊は鹿のような早く走れる脚を持っていません。するどい牙やつめもなく、外敵から身を

守ることもできません。また、自分たちで餌や水のあるところを
探すこともできず、また

群れから離れては生きてゆけません。また母羊と子羊が同じ群れの中で迷子になってしまう

こともあるのです。このように無力でおろかな弱いシンボルのような動物ですが、この羊に

たった一つだけ、長所があります。それは自分たちの「牧者」だけは間違えることがないこ

とです。



 夜になると幾つもの群れが一緒の囲いの中に入ります。朝、牧者が一頭一頭の羊の名前を

呼ぶとそれに答えて、外に出てきます。どんなにその声をまねても自分の本当の牧者の声

でなければ羊はやってきません。また牧者が先頭に立って歩くとそのままついてゆきます。

牧者がよい餌場、水辺につれていってくれることを信じているのです。



 この羊と牧者の深い信頼と愛情あふれる関係をイエス様は私たちとの関係として語って

くださるのです。私たちは自分の声を張り上げてしまうとイエス様の声が聞こえなくなっ

てしまうのです。祈りで大切なことは「自分の言いたいことやお願いを申し上げること」

よりも「イエス様、語ってください、今日私たちにあなたが伝えたいことを」と「待つこと、

聴くこと、こころにひびかせること」なのです。



 世の中の情報はかえって私たちをとまどわせ、時には誤った方向に進ませてしまうこと

さえあるのです。私たちの信仰の道においても簡単には答えは見つかりません。

「苦しみながらも、今のところの精一杯の答え」であろうともイエス様ならば「どうお考

えであろうか」という心でそれを捜し求めるならば、きっと少しづつ、聞こえてくるでし

ょう、あのお方の声が。





               









稲川神父様のお話

 

復活節第五主日 B年 ヨハネ十五章一〜八節 (5月14日の朗読箇所


 1:「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。

 2:わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。

  しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。

  3:わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。

 4:わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝

  が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、

  あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。


 5:わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、

  わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、

  あなたがたは何もできないからである。

 6:わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。

  そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。

 7:あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつも

  あるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。


 8:あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、

  わたしの父は栄光をお受けになる。



[ 福音の研究]

復活祭後の主日ではヨハネ福音書の重要な箇所が朗読されます。B年に当たる今年は

 第4主日ではヨハネ10章のよき牧者のたとえ、そして第5主日ではヨハネ15章の

 ぶどうの木のたとえ、第六主日では同じ15章の続きとして愛の掟についての教えが

 朗読箇所として選ばれています。この三つの箇所はとても大切なメッセージをもった

 箇所です。



1. ヨハネ福音書のたとえの特長

 四福音書の中には数多くのたとえ話が登場します。共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)

におけるたとえ話のテーマは、神の国に関するもの、イエスの教えとキリスト者の生き方

に関するものが多いのですが、ヨハネ福音書に記されるたとえは、「よき牧者と羊」、

「ぶどうの木と枝」というようにイエスと私たちの生命的な絆をテーマにしたものである

ことが特長です。



2.旧約聖書におけるぶどうの木のたとえ

    ホセア9:10 荒野でぶどうを見出すようにイスラエルを見出した。

    詩 80:9 あなたはぶどうの木をエジプトから移し、

    イザヤ5:1〜7 よい実を結ばないイスラエル⇒ イザヤ27:2〜11

    エレミヤ2:21 悪い野ぶどうに変わり果てたイスラエル

    特にエゼキエル15:1〜6はイスラエルがぶどうの木にたとえられる理由を

    解
き明かす鍵となる箇所です。

     ぶどうの園 ⇒ 約束の地

     ぶどうの木 ⇒ イスラエル

     森の木   ⇒ 他の国、王朝、国民

          ぶどうの実      ⇒    イスラエルの信仰

        ↓                ↓ 

     酒となって人々を喜ばせる    救い、祝福を万民に与える祭司の国

                           
        祝 祭               喜びの祭儀
            
_______________」
                  ↓
   
         ヨハネ福音書 カナの婚礼 2:1〜11

                    十字架上の血と水 19:34
                  参照箇所:Tヨハネの手紙5:6〜12
                    

                      新しい契約の血

       マタイ26:27〜28、出エジプト24:4〜8

       マルコ14:22〜25、エレミヤ31:31〜34

        ルカ22:15〜20

       Tコリ11:23〜25


3.ヨハネ15:1〜8のぶどうの木のたとえ

 ぶどうの木のたとえは、上記のように旧約聖書において常に神とイスラエルの関
係、

使命を語るものでした。ヨハネはこの伝統的なたとえに新約の息吹きを注ぎ、
御父と

イエス、そしてイエスを信じる人々の関係を語ります。



 この箇所のキーワードは「とどまる」(ネメイン)です。


 @旧約聖書(LXX)において「とどまる」は90回使用されています。

  使用例:ユディト11:17 ある場所に住む、ある人の側にいる。

      Tマカバイ15:7 あるものを所有する。

           13:11不動なものとして住む。 

      知恵の書 7:27 神の英知で信仰が続く

      ダニエル 6:27 神の永遠性を示すことばとして

 A新約聖書において「とどまる」は118回の使用例があります。

    共観福音書  12回  普通の意味で使われることが多い。

    ヨハネ福音書 40回  うち11回がこの15章で集中的に使用。

    ヨハネT〜V 27回

    黙示録     1回

 このような使用頻度を調べてみると「とどまる」はヨハネ独特な用語と呼んで差し

支えないと思います。ヨハネの場合、「とどまる」はイエスと弟子たちの親しい一致、

いのちの交流、英知と生命の共有を示すことばなのです。

  「とどまる」と「結ぶ」

  2節 実を結ばないものは取り除かれる。

     実を結ぶために刈り込まれる。  試練を暗示、しかしそれは恵み(世話)


  4節 とどまらない ⇒ 実を結ばない

     とどまる   ⇒ 実を結ぶ

  8節 実を結ぶ ⇒ 父の栄光となる。 

 Bヨハネ15:1〜8を御父とイエス、イエスと弟子たちの関係から図式にしてみます。

            1〜4節        5〜7節
 

1節 私はぶどうの木、父は農夫
    栽培者(父と子の関係) 

 
2節 私の枝で実を結ばないもの
    は刈り取られる。
    実を結ぶものは刈り込まれる。


 3節 私の語ったことばですでに刈り
      こまれている。

 4節 枝はぶどうの木につながって

    いなければ実を結ばない。

      あなたがたも私にとどまらな
      ければ実を結ばない。

 4a節私のうちにとどまりなさい。     
  
私もあなたたちのうちにとどまる。
      



 5節 私はぶどうの木、あなたたちは
     その枝(イエスと弟子の関係)

 5b〜6節 人が私にとどまり、私がその
       人にとどまる ⇒実を結ぶ
       

       私を離れては何もできない
           枝のように捨てられ、焼か
       れる ⇒実を結ばない






 7節 あなたがたが私にとどまり、私の
    
ことばがあなたがたのうちにとどま
    っているなら、何でも願いなさい。
           [___________________]
                                                         
8節 あなたがたが多くの実を結び  ⇒ 喜びをもたらし
   弟子であることをあらわす   ⇒ 万民が救いに招かれる

          父が栄光を受ける⇒ 万民が父をたたえる。

このようにヨハネにおけるぶどうの木のたとえは、御父と御子の愛と生命の絆を語ると

同時にイエスと弟子たち(キリストを信じる人々)の愛と生命の絆を語り、御父と御子の

相互内在の神秘に私たちが招かれていることを解き明かしてくれるのです。


それでは、この同じ個所をもう一度、構造的に、立体的に並べ替え、このメッセージを解析

してみましょう。

    

  ┌──A 私の父は農夫である(1b節)
  │                 
  │
  │ ┌──B 私にとどまりなさい。私もあなたがたのうちにとどまる(4a節)
  │ │
  │ │
  │ │ ┌──C 私の枝で実を結ばないものは、みな父がそれを取り除き、実を結ぶものは、
  │ │ │     みなもっと実を結ぶように刈り込んで下さる。あなたがたは私が語った
  │ │ │     ことばによってもうきれいになっている(2〜3節)
  │ │ │  
  │ │ │ ┌──D 枝がぶどうの木にとどまっていないならば、枝だけでは実を結ぶことは
  │ │ │ │     できない。同じようにあなたがたも私にとどまっていなければ実を
  │ │ │ │     結ぶこときない(4b、c節)
  │ │ │ │ 
  私はまことのぶどうの木 ──────→ 私はぶどうの木、あなたがたは枝である
    (1a節)                 (5a節) 
  │ │ │ │
  │ │ │ │
  │ │ │ │
  │ │ │ └──'人が私にとどまり、私もその人のうちにとどまっているなら実を結ぶ。
  │ │ │       私を離れてはあなたがたは何もすることができないのである
  │ │ │        (5b、c節)
  │ │ │    
  │ │ └──C’私にとどまっていない者があれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。
  │ │        そして、かき集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう(6節)       
  │ │
  │ └──B’あなたがたが私にとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、
  │        望むことは何でも願いなさい(7節)       
  │
  └──A’あなたがたが多くの実を結び、私の弟子であることをあらわすことによって、
        私の父は栄光をお
受けになるのである。
             

 こうしてヨハネのぶどうの木のたとえを読んでみますと、ヨハネにとっての信仰とは、

イエスとのパーソナルな親しさをいかに保つかという点に集約されてきます。イエスに


もっとも愛された弟子ヨハネらしい記述であると思います。



[わかちあい・祈りのヒント]

1.「父は実を結ぶ枝を刈り込んでくださる」とイエスは言われ

  ましたが「刈
り込まれる」とはどのようなことでしょうか?

2.木につながっている枝とは、キリストと私たちの間では具体的

  にどのよう
につながっているのでしょうか?

3.キリストとのつながりをどのような時に感じますか?

4.キリストとのつながりを豊かにするために今あなたがしている

  ことは、
どんなことですか?

5.私たちは日々の生活の中で、どのような実を結んでいるでし

  ょうか?


6.「とどまっているならば、何でも願いなさい」とイエスは言って

  下さいまし
たが、あなたは何を願いますか?

7.あなたとキリストの関係は、ぶどうの木のほかにどのように

  表現できます
か?




                      









稲川神父様のお話


 復活節第6主日 ヨハネ15:9〜17(2006年5月21日の福音朗読)

 先週のぶどうの木のたとえに続く箇所においてイエス様は「愛の掟」について語ります。

この「愛の掟」についてヨハネは三度語りますが、その最初の13章34節においては

この掟を「新しい掟」として語ります。すなわち新約におけるすべての掟の根本精神を表す

ものとして語られています。すべての掟、行いはこの掟において始まり、集約されている

のです。



 そして二度目は今日の箇所、15章12節に「わたしの掟」という名でこのことが語られ

ます。イエス様が私の掟と言われるのは、その直前にこれが「父の掟」でもあることを

語っているからです。まことに「御父と御子」は一つなのです。さらに15章17節にお

いて「わたしの命令」すなわちイエス様の絶対的な意思であることが宣言されています。



 この箇所においてイエス様は弟子たちを「友」と呼んでいます。これは特筆すべきことで

旧約聖書において「神の友」と呼ばれたのはアブラハムだけです。


さらにこの「友」を示す用語は「愛する者」を意味するのです。ヨハネ11章3節にあの

ラザロが病気になったとき、マルタとマリアはイエス様に人を使わして「あなたの愛する

者が病気です」と知らせており、それに答えてイエス様も11節において「私たちの友

ラザロが眠ってしまった。私は彼を起こしにゆく」と語っておりますが、この「愛する者

=友」という用語は同じなのです。



 すなわち、イエス様は弟子たちを、そして私たちをはっきりと「愛する者」であることを

宣言なされたのです。その「愛する者」のために命を捧げること
以上の大きな愛はないと

語られたのです。この新しい掟、イエス様の掟である
愛の掟に生きようとするならば、イ

エス様との生き生きとした関係の中にいなければこの愛の掟を実践することはできません。

今、この瞬間にイエス様ならばこうするであろうということを考え、知り、確信しなけれ

ばそれを実行できません。イエス様の愛し方について学び続ける弟子である姿勢、生き方

を続けていなければ、すぐに自分の有利・不利、都合・不都合を優先してしまいます。



 この掟はイエス様と私たちをつなぐ掟です。この掟を重荷に感じたり、この掟からまぬが

れることを望んでいては私たちとイエス様の間には何のかかわりもなくなってしまうのです。





                     









稲川神父様のお話


主の昇天 マルコ16:15〜20(2006年5月28日の福音朗読)

 復活節もいよいよ昇天・聖霊降臨という節目を迎えます。イエス様はご復活の後、40

日間に渡り、様々な時、場所、人々にご自分を現し、ご自分が死に打ち勝ったことを

お示しになりました。ルカ的な救いの歴史によれば復活・昇天・聖霊降臨はこのような

流れの中で説明されていますが、他の福音書においてはしばしば、この三つの出来事は

同じ救いの出来事の様々な側面として語られることも多いのです。



 マルコ福音書においても主の昇天と聖霊降臨(全世界への弟子たちの派遣)は同時のこと

として語られております。宣教という用語は、今日では一般的なことばとしてよく知られ

ておりますが、実はこのことばはマルコが使い始めたことばなのです。マルコにおける

イエス様の派遣のことばは七つの要素になっています。@全世界に行って A洗礼 

B悪霊を追い出す C新しい言葉で語る D蛇をつかむ E毒を飲んでも害を受けず

 F病人に手を置く これらの言葉はイエス様自身の宣教の活動を示す言葉でもあり、

弟子たちはイエス様と同じように宣教することを表しています。また宣教は弟子たちの

力によるものではなく、復活して全世界の信じる人々の中におられるイエス様との協力・

共同の行いであることをマルコは語っています。「主は彼らとともに働き、彼らの語る

言葉が真実であることをそれに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」と記され

ています。


 宣教とは私たち人間が人間の知恵で語ることではありません。イエス様は復活して全世界

の人々の心の中に語りかけておられるのです。主の昇天ということはイエス様が天の遠い

ところに行ってしまったのではなく、ヘブライ語の「ハッシャマイーム・天」は、私たち

がこの地上のどこにいてもいつも私たちの頭上に天があるように、いつも私たちとともに

いることを表す言葉なのです。「天におられる私たちの父よ」と呼びかけるあの主の祈り

も同じことを意味しています。



 弟子たちはイエス様と一緒にいるとき、自分の言葉でイエス様を語ることはありませんで

した。それは目の前にイエス様がいるからと思っていたからでしょう。イエス様がある意

味で見えない、けれど彼らの心の中にイエス様を感じているからこそ、それを語りだした

のです。今の私たちも弟子たちのように語るよう招かれています。