聖書研究





稲川神父様のお話


聖霊降臨の主日ヨハネ15:26〜27、16:12〜15(2006年6月4日の福音朗読)

 復活祭から50日目に聖霊降臨を祝います。これは旧約の歴史の中で過越祭から50日

目に律法が神の民となったイスラエルに与えられたことを祝うあの五旬祭と重なります。

旧約の時代には神の民となったのはイスラエルという一民族だけでしたが、新約の時代

には、すべての国の民が神の民となる道がイエス様によって開かれ、使徒たちの働きを通

してそれが実現し始めるのです。



 第一朗読である使徒行伝において、聖霊降臨の様子が語られております。

聖母マリアと使徒たちの集まっているところに聖霊が「炎のような舌」の姿で下りました。

その時、全世界の各地からエルサレムに集まっていた人々は各々の故郷のことばで使徒たち

の語る言葉を聞きました。バベルの塔の事件以来、人類はことばの障壁のために分け隔て

られていましたが、聖霊はそのこころの壁をつき貫ぬけて人々に福音に耳を傾けさせたの

です。



 福音書においては聖霊が「真理の霊」・「弁護者」・「告げる方」としてイエス様の口

から語られています。聖霊は聖書の中でいろいろな姿で描かれています。「鳩」・「火」・

「水」・「息」・「風」・「舌」などです。これらのものに共通するもの、それは「命」

のシンボルということです。火や水がなければ生きられません。生きているということは

「息をしている」ことであり、鳩はあのノアの洪水の時、地上が再び「人間が生きること

のできる世界」となったことを告げ知らせました。



 今の私たちにとって聖霊をイメージするならば「気」ということばはどうでしょうか?

「気」ということばはいろいろな時に使われています。「元気」「勇気」「ヤル気」

「気が抜けたような」「気がつかないで」「気をつけて」「気にしないで」とかなりの

用法があります。では「気」とはなんでしょうか?とあらためて考えてみると「これこれ

である」と説明することが難しいことばではないでしょうか? それこそ「雰囲気」で

使っていませんか?目には見えないけれど私たちが自然にそうするようになる「気分」・

「気持ち」はどこから来るのでしょう。私たちが「やる気」になるのはどんな時でしょう。



 聖霊は父と子の愛の交わりであると言われます。目には見えないけれど愛の絆を持った者

同士には「思い・ことば・行い」が通じ合っているのです。相手がそこにいなくてもその

相手のことをいつも思い、そのために語り、そのために行なうのです。聖霊というお方は

父と子と私たちを結ぶために父と子から送られてくるお方なのです。





       









稲川神父様のお話


 三位一体の主日 マタイ28:16〜20 (2006年6月11日の福音朗読)

 聖霊降臨の主日の後、三位一体の主日と聖体の主日という神学的なテーマをもった日曜日

が祝われます。三位一体ということはすでに聖書にそのことが現れていますが、カトリック

教会の神学の中でも大変難しいテーマであり、15世紀の第二フィレンチェ公会議において

ようやく神学的な理論が定まったという経緯があります。



 10世紀ごろ、三位一体の主日が全世界の教会で祝うべき祝日となった頃からミサを三位

のみ名を唱えながら十字架のしるしをするという形が広まりました。三位一体を聖霊降臨の

後に祝うのは、三位の神が救いの歴史の始まりであり、また完成の到達点であることを示し

ています。
  


 すでに古代の教父オリゲネスという神学者は救いの歴史を「父から父へ」という一言で

あらわしております。私たちはこの三位一体を理論として学ぶことや人間の理性で理解す

ることよりも、この三位一体の神様の愛に包まれて生きることを目指しているのです。



 今日の福音書はマタイ福音書の最後の部分です。そこには弟子たちを全世界に派遣する

キリストのことばが語られています。その特長は@すべての民を私の弟子にしなさい。

A父と子と聖霊のみ名による洗礼B世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる。

ということに要約されています。



 この箇所によれば宣教とはイエス様と人々が「師と弟子」の関係となること、すなわち、

イエス様に学びながら、イエス様と行動をともにすること=世の終わりまでいつもあなた

がたとともにいる。イエス様の弟子になることは「父と子と聖霊のみ名による洗礼を受け

ることによって始まることが語られております。父と子は一つであり、すべてのことを与

え合っておられます。それゆえ、私たちを父と子の交わりに招き、私たちを父と子の親し

い関係に導くために
聖霊が私たちのところに父と子から送られてくるのです。この聖霊の

導きを
通して、キリストに出会い、従い、学び、歩んでゆこうとする人々が弟子たちと呼

ばれるのです。



 興味深いことにこの箇所において、イエス様からこの言葉を聞いている弟子たちの中に、

「疑う者」もいたと記されていることです。理論として考えれば疑いは尽きることはあり

ません。理論ではなくとりあえず歩み出すことによって私たちの信仰は始まるのです。





       









稲川神父様のお話


 聖体の主日 マルコ14:12〜16、22〜26 (2006年6月18日の福音朗読)  

 三位一体の主日に続いて、神様の救いの計画全体をシンボリックにあらわす聖体の主日

が祝われます。三位一体が理論的に思えてしまうのに比べて聖体は私たちにとって目に見

えるわかりやすい、親しみやすい教えだと思います。



 今度の日曜日の福音の箇所はマルコから最後の晩餐の記述が朗読されます。

最後の晩餐はたくさんの画家、芸術家によってテーマとされております。すでにカタコン

ベの中にその痕跡があります。またモザイクによるもの、フレスコ画、そしてたくさんの

キャンバス画に。初期のものはキリスト以外の人物は皆同じような表情で単純なものでし

た。そして、そのテーマは最後の晩餐=聖体の制定が中心メッセージでした。後世のもの

にはユダの裏切り、各弟子たちの驚きや不安、それらが生き生きと描写されております。



 イエス様はこの晩餐を大変重要に考えらていること、入念に計画しておられることがマ

ルコの記述からわかります。この晩餐を行なった家は実はマルコの家であったという説も

あるのです。「水がめを運んでいる男に出会う。その人に
ついて行きなさい。すると用意

の整った二階の広間を見せてくれる」とはイエス様がこの晩餐を以前から計画しておられ

ることを感じさせてくれます。



 最後の晩餐、多くの弟子たちにとってはいつものように先生と過ぎ越しの食事をすると

いう単純なことと思っていたのに、その日のイエス様はいつも以上に荘厳に荘重に、語られ

ます。パンを祝福するだけでなく「これは私の体=私自身である」ことを宣言されます。

これは新しい過ぎ越し、新しい契約のためにご自身がいけにえの小羊であること、いよいよ

その時が来たことを表します。



 イエス様は出会った人々、弟子たちを愛し続けているしるしとして彼ら信じる人々に、彼

らを生かす形でご自分のシンボルを遺して下さったのです。これから弟子たちの目の前には

十字架という受け止められないような「死」が訪れてきます。しかし、目に見えなくなって

もイエス様は彼らを愛し続けていることをこのご聖体を与えることによって示されたのです。

ご聖体、それはパンの姿になっても私たち一人ひとりを訪れて下さるというイエス様の決し

て裏切られることのない約束なのです。「キリストの体」それはこのパンはキリストご自身

ですということとこれを受け取るあなたはキリストの体である教会の一員ですという両方の

意味が込められているのです。「アーメン」(その通りです。そしてそのようになりますよ

うに)と答えるのです。




    


   








稲川神父様のお話


  年間第12主日 マルコ4:35〜41 (2006年6月25日の福音朗読) 

 復活節・聖霊降臨に続く特別な典礼の季節が終わり、再び年間主日が王たるキリストの

祭日(年間主日の最後)まで続きます。さて、今年は
B年ですので年間主日の福音朗読は

マルコ福音書が継続的に朗読されます。今度の日曜日は
マルコの4章からです。マルコ福

音書の1章21〜45節には第一の奇跡物語
が収録されています。またマルコ4章35〜

6章6節まで第二の奇跡物語がまと
めて記されています。今日はその始めのエピソードに

なります。



 第二の奇跡物語は物語風の描写が豊富でイエス様だけでなく多くの人物が登場します。弟

子たち・会堂司ヤイロ・長病いの女性などでその中心的なテーマはイエス様と出会い、交

わりをもつ人々の「信仰」です。



 イエス様は「向こう岸へわたろう」と言い出されます。何のためか、何故そうするのかに

ついて何も語っていません。これは出エジプトにおいて紅海を渡ってあるくこと(この渡

る=オブリームということばから「ヘブライ人」という名前が始まったのです)を命じら

れた主のことばを思い出させます。海は砂漠の民にとっては恐ろしいものでした(黙示録

21:2)。しかし、神は海さえも支配するものであることを示されたように、イエス様

はこの嵐の湖でご自分が主なる神と同じ権能・権威をもつお方であることを示されるので

す。舟は教会のシンボルです。その帆柱は十字架、舟を動かす風は聖霊、そこにいるのは

イエス様と弟子たち、まわりの水は嵐のように狂乱怒涛しかしイエス様がともにいるので

す。外界のさわがしさと対照的なイエス様の姿を見て、弟子たちは驚き、また不安になり

ます。あわててイエス様をゆりおこす弟子たちの困惑に対して、イエス様は威厳をもって

命じられます。
嵐が静まったのを見て、弟子たちは今度は別の恐怖とおののきに襲われま

す。「この方はいったいどなたなのだろう?風や湖さえも従うとは・・・」



 この舟の中の弟子たちの姿は私たちの姿によく似ています。私たちの信仰も物事が順調

な時はとても意気盛んです。群集の前にイエス様といる時のようにしかし安全な陸地を離

れて、不安定な湖に乗り出した弟子たちは嵐によって沈みそうになってしまいます。プロ

の漁師であり舟の扱いには慣れている彼らでさえ、もはや手の施しようがありません。私

たちもそれぞれの生活の中で不安の嵐や闇に閉ざされる時にこの弟子たちのように不安に

おびえ、叫び出してしまいます。すぐそばにイエス様がおられることを忘れて・・・「先生、

私たちがおぼれてもかまわないのですか?」
弟子たちの叫びはなんと素朴で直裁的な信頼

と不安が混在しています。イエス様も
さぞ苦笑されながら言われたことでしょう。「なぜ

恐れるのか」と。