聖書研究





稲川神父様のお話


年間第13主日  マルコ5:21〜43 (2006年7月2日の福音朗読)

 今日の福音は、会堂司ヤイロの娘の復活と出血病を患っていた婦人の治癒です。この二

つの奇跡は共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)で語られていますが、マルコが一番生き

生きしています。ヤイロはイエスを見るとその足元にひれ伏し、「切に」願います。ヤイ

ロは私の「小さな」娘が死にかかっているので、娘に手を置いてください。娘が「助かり」

生きるようにと言います。(「 」の内がマルコの固有な表現)



 25節からは、出血病の婦人が登場して、ヤイロの娘の話しは中断されます。マルコはそ

の病気の重さを詳しく報告しています。彼女の病気の苦しみはすべてを費やしてきたのに

悪化する一方です。しかし、この婦人にも光が訪れます。



  「彼女はイエスのことを聞くと、やって来て、群衆の中にいたまま」後ろからイエスの

上着に触れたのです。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と信じていたか

らです。すると直ちに病が癒されたことを感じます。イエスもまたご自分から力が出て行

ったことを感じ、自分に信仰をもって触れた人を探します。



 弟子たちはイエスのことばに疑問をいだき、はやくヤイロの家に急ぐべきではないでしょ

うか、という気持ち(あせり)を表わしています。しかし、イエスはご自分の助けを求め

て来た人を探し続けます。イエスはどんなに群衆がいてもそのご自分を求めている一人の

人を見捨てないのです。病気の癒しだけを考えれば、もう用事は済んでいるはずです。し

かし、イエスはその人にことばをかけることを望んでいるのです。「あなたの信仰があな

たを救った」このように一人の身に起こったこと
を皆に知らせたかったのです。信仰の

価値、大切さを皆に教えたかったのです。



 このように時間がかかったためでしょうか、ヤイロの家に到着した時に、娘は死んでいま

した。人の目にはもうイエスの到着も役に立たないことのように見えてしまいました。し

かし、イエスにとって肉体の死は「眠っている」に過ぎないことでした。イエスにとって

真の死は「いのちの主であるキリストを信じない、受け入れないこと」なのです。イエス

はペトロ・ヤコブ・ヨハネの3人と子どもの両親だけを連れて、子どものいるところへ向

かいます。「タリタ、クム」と聖書はイエスの口から出たアラマイ語をそのまま聖書に残

しました。これを見、また聞いたペトロたちが感動のあまり、イエスのことばをそのまま

後世の人々に語ったためでしょう。
イエスに触れること、信仰をもって近づく人、人の目

から見て絶望的な状況の中に
あってもイエスを待ちつづけることの大切さを今日の福音は

教えてくれます。




                 








稲川神父様のお話


年間第14主日  マルコ6・1−6(2006年7月9日の福音朗読)  

 日本ではお盆の季節に里帰りをするという習慣がありますが、今度の日曜日の福音にお

いてはイエス様がふるさとナザレを訪れた時のことが語られています。福音書を調べてみ

るとこのナザレへの訪問は2回ほどあったことがわかります。



 第一回目は宣教の始めの頃、(ルカ4:16〜22)そこにはふるさとナザレの人々の

感嘆が好意的に語られています。しかし、第二回目ガリラヤ宣教の最後の頃の訪問(マル

コ6:1〜6 今度の日曜日の朗読箇所)においてはふるさとナザレの人々はイエス様を

受け入れようとせず、驚き・怪しみ・不信仰な態度を露わにします。



 ナザレの人々がイエス様につまずいた理由は、彼らがかつて知っていたあのイエスが何

故、大工であり、マリアの子であり兄弟・姉妹もここにいるという彼らの既成概念がイエス

様の語ることばやイエス様の姿を「これまでの姿」でしか理解しようとしたのではないで

しょうか?身近な存在であったあのイエスが
なぜ今、預言者のようにふるまうのか?と心

を開くことが出来なかったのです。



 この出来事は重大な意味を持ちます。この後のイエス様の宣教はユダヤ人たち、会堂と

いう場所から異邦人の住む町や村へとその方向が変わってゆくのです。それは初代教会の

使徒たちの宣教においても同じことが繰り返されてゆくのです。本来、まず第一に神の国

にまねかれた旧約の神の民が新しい契約、新しい過越、新しい生き方を受け入れず、かえ

って異邦人やがて万民がイエス様の教えに導かれて新しい神の民となってゆくのです。



 このことは今日も繰り返されることなのです。私たちも信仰の経歴が古くなってくると

いつの間にかあのナザレの人々のように「これまで」にこだわったり、そこにとどまって

しまったり、新しい仲間になる人々に心を開かず、自分たちにだけ都合の良い教会にして

おきたいと考えてしまったりということが起こりえるのです。イエス様はつねに「あたら

しい」お方なのです。ファリサイ人の不信仰は悪意や妬み、反感という積極的な敵対心で

した。ナザレの人々の不信仰は流動的で扇動に弱く、しるしを求め、自分たちで動こうと

はせず、ただ受身な姿です。またイエス様の身近なところにいた弟子たちも人間的な弱さ、

自分の神に対する考え方へのこだわり、信仰と生活が分離しているというような傾向があ

りました。宣教とはまず自分の中にあるこれらの不信仰に対してその弱さやあやまちを素

直に認め、いつも新しいことを語るイエス様の声に耳を傾けるところから、すなわち自分

の回心から始まるものなのです。





                 








稲川神父様のお話


年間第15主日  マルコ6・7−13(2006年7月16日の福音朗読)  

 イエス様は宣教活動の最初から、弟子たちを呼び集め、ご自身の教えを間近なところで

学ばせ、衣食をともにし、福音のための働き手を育てて行きました。
今日の福音書におい

てイエス様はその弟子たちをいわば「教育実習」のように派遣して行きます。



 イエス様のこの弟子たちの派遣の特長は、@「二人ずつ組にして」A杖とサンダル以外は

何も持たず、B悪霊に打ち勝つ権能を与え、C迎え入れてくれる家にとどまり、D受け入

れなければ「足の裏のちりを払う」こと。E弟子たちは出かけて行き、悔い改めさせるた

めに宣教し、F悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。



@「二人ずつ組にして」:イエス様は宣教活動が共同体の協力の下に行なわれるものであ

ることを示唆しています。仏陀が弟子を遣わす時と好対照です。


A杖とサンダルはモーセの姿、エルサレムの神殿を訪れる巡礼者のシンボルと重なります。

宣教とはすでに行く先の人々の心の中に働きかけておられる神様と出会うためという姿勢

が大切なのです。


B悪霊に打ち勝つ権能:人々や世の中を支配している悪しき考え、慣習や制度、さらには

妄想、風評、偏見というような「この世が是としているけれど間違っているもの」に対し

て、神の愛、神の望む世界(神の義)を実現するための力が弟子たちに与えられたのです。


C「迎え入れてくれる家」:行く先にはかならず神を信じ、神様からの働きかけを待って

いる人々がいることを暗示しています。


D「足の裏のちりを払う」:受け入れない人々に対しては神様もその人々を受け入れてく

ださらないことを示す預言的な行為です。ルカ10章11節には類似箇所に「わたしたち

の足についているこの町のちりさえも払って、あなたたちに残そう。しかし、神の国が近

づいたことは知っておくがよい」と述べるようにイエス様は語られています。


E弟子たちの宣教は「悔い改めさせる」ための宣教と語られています。悔い改めとは単な

る改悛ではなく、新しい生き方への方向転換の意味での回心です。


F悪霊を追い出し、油を塗って病人をいやす。初代教会の活動を暗示する使徒たちの働き

です。悪霊とは社会にはびこる悪例、悪癖、慣習、社会の病、病気とは人間を苦しめるも

のの象徴です。





                 








稲川神父様のお話


年間第16主日  マルコ6・30−34(2006年7月23日の福音朗読)  

 先週の福音朗読においてイエス様は弟子たちを二人ずつ組にして、宣教のため遣わされ

ました。今週はその続きです。弟子たちは使命を果たしてイエス様のところに戻って、自

分たちが行なったことや教えたことを残らず報告しました。
この弟子たちの行いは大切な

教訓を含んでいます。



 すなわち、@第一の宣教者はイエス様であること、ルカ福音書10:17〜20には「あ

なたの名前によって命ずると悪霊さえ従います」と報告しているように、弟子たちの行な

ったこと、教えたことはイエス様とつながっているからこそ、可能なことだったのです。



 A宣教には「分かち合い」が必要なこと、弟子たちは違う村や町へと出かけてゆきました。

それぞれの弟子はイエス様に報告するとともに、他の弟子たちがどのように行なったか、

互いの経験を語り合いました。務めは種々に分かたれていても、それぞれが不可欠な役割

であり、みなが力をあわせてこそ、宣教が成り立つのです。逆に言えば宣教がうまく行か

ない時は、皆の心が一つになっていない時なのです。



 B宣教活動を支えるためには祈りが必要です。イエス様は帰ってきた弟子たちに「人里は

なれたところに行って、しばらく休むがよい」と呼びかけられています。「
Ora et Labora

(祈り かつ 働け)はキリスト教生活のモットーとなっていますが、イエス様ご自身が

これをもっとも行なっておられました。



 こうして、弟子たちはイエス様とともに荒れ野(人里はなれたところ)に向かいます。

しかし、そこでもまたイエス様と弟子たちは働くことになるのです。
「ところが、多くの

人々は彼らが出かけてゆくのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつ

け、彼らより先に着いた」と。イエス様と弟子たちが舟から上がるとイエス様はまたもや

彼らに話し始められます。



 弟子たちはそのことについて、群集やイエス様に不平や不満をもらしてはいません。彼ら

の体は疲れていたかもしれませんが、心は疲れていません。私たちの信仰生活にも不調な

ときがあるかもしれません。それは「心が疲れてしまっている時」なのではないでしょう

か? イエス様が見えないとき、感じられないときこそ、心が疲れてしまっているときな

のではないでしょうか?





                 








稲川神父様のお話は、7月28日〜9月1日まで夏休みとなります。
次回は9月8日に再開の予定ですので、楽しみにお待ちください。