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年間第14主日 マルコ6・1−6(2006年7月9日の福音朗読)
日本ではお盆の季節に里帰りをするという習慣がありますが、今度の日曜日の福音にお
いてはイエス様がふるさとナザレを訪れた時のことが語られています。福音書を調べてみ
るとこのナザレへの訪問は2回ほどあったことがわかります。
第一回目は宣教の始めの頃、(ルカ4:16〜22)そこにはふるさとナザレの人々の
感嘆が好意的に語られています。しかし、第二回目ガリラヤ宣教の最後の頃の訪問(マル
コ6:1〜6 今度の日曜日の朗読箇所)においてはふるさとナザレの人々はイエス様を
受け入れようとせず、驚き・怪しみ・不信仰な態度を露わにします。
ナザレの人々がイエス様につまずいた理由は、彼らがかつて知っていたあのイエスが何
故、大工であり、マリアの子であり兄弟・姉妹もここにいるという彼らの既成概念がイエス
様の語ることばやイエス様の姿を「これまでの姿」でしか理解しようとしたのではないで
しょうか?身近な存在であったあのイエスがなぜ今、預言者のようにふるまうのか?と心
を開くことが出来なかったのです。
この出来事は重大な意味を持ちます。この後のイエス様の宣教はユダヤ人たち、会堂と
いう場所から異邦人の住む町や村へとその方向が変わってゆくのです。それは初代教会の
使徒たちの宣教においても同じことが繰り返されてゆくのです。本来、まず第一に神の国
にまねかれた旧約の神の民が新しい契約、新しい過越、新しい生き方を受け入れず、かえ
って異邦人やがて万民がイエス様の教えに導かれて新しい神の民となってゆくのです。
このことは今日も繰り返されることなのです。私たちも信仰の経歴が古くなってくると
いつの間にかあのナザレの人々のように「これまで」にこだわったり、そこにとどまって
しまったり、新しい仲間になる人々に心を開かず、自分たちにだけ都合の良い教会にして
おきたいと考えてしまったりということが起こりえるのです。イエス様はつねに「あたら
しい」お方なのです。ファリサイ人の不信仰は悪意や妬み、反感という積極的な敵対心で
した。ナザレの人々の不信仰は流動的で扇動に弱く、しるしを求め、自分たちで動こうと
はせず、ただ受身な姿です。またイエス様の身近なところにいた弟子たちも人間的な弱さ、
自分の神に対する考え方へのこだわり、信仰と生活が分離しているというような傾向があ
りました。宣教とはまず自分の中にあるこれらの不信仰に対してその弱さやあやまちを素
直に認め、いつも新しいことを語るイエス様の声に耳を傾けるところから、すなわち自分
の回心から始まるものなのです。
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