聖書研究





稲川神父様のお話


年間第26主日マルコ9:38〜43、45、47〜48(2006年10月1日の福音朗読)

 先週の福音に続く箇所が朗読されます。イエス様は弟子たちに仕える者になることを求めら

れ、使える者である弟子たちのあるべき姿が示されます。



 きっかけはヨハネのことばでした。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見まし

たが、私たちに従わないので、やめさせようとしました。」弟子であるヨハネにとっては自分

たちの先生の名前でそのようなことをしていながら自分たちの仲間になろうとしない人々に疑

問を抱いたのです。このヨハネの提示した問題は、後々のキリスト教の歴史を考えて見ますと

興味深いものがあります。



 キリスト教は歴史の中でいろいろなグループへと分かれてゆきました。そして互いにその正

統性を主張して、時には武力的な衝突さえも起こしました。東方教会、西方教会の分裂、さら

には聖公会の分離、プロテスタントの出現などです。これまで、ローマカトリック教会は唯一・

聖・公・使徒継承を十全に保全しているのはカトリック教会だけであり、他のキリスト教の諸

派を破門・異端扱いしていました。第二ヴァチカン公会議により、それらの態度は是正されま

したが、「違いを強調する前に、共通の要素を大事にする」という基本態度が
確認されたこと

がとても大きな意識改革をもたらしました。もちろん、これらのエキュメニズムの問題は解決

されたわけではありませんが、対話、協力、和解、相互認証というプロセスがようやく対立の

愚かさを乗り越え始めたのです。



 イエス様は「寛容さ」ということを大切にされます。自分たちのグループの正統性を主張する

人々に「これらの小さな者の一人をつまづかせる」ような「不寛容さ」は許されないことがイ

エス様の口から語られます。それは、激しいほど厳格です。人に対しては優しく、寛容であり、

自分自身に対しては厳格であれということがイエス様が弟子たちに示されたことだと思います。

なぜなら、人間とはしばしばその反対の態度を取りがちなものなのです。



 神様は「許したい、どうすれば立ち直れるだろうか」と考えて下さるのに、私たち人間は「罰

したい、どうすればこの人々を排除することができるだろうか」と考えてしまうものなのです。

あのイラク戦争を強引に始めた人々が言っていた「大量殺戮兵器」の存在は確認されず、テロ

を引き起こしているグループとの関連性も証明できないということが徐々に見えてきた中で、

これらの人々は「それでもあの戦争は正しかった」と主張しますが、神様はどうお考えでしょ

うか?

 




                     









稲川神父様のお話


年間第27主日マルコ10:2〜16(2006年10月8日の福音朗読)

 十字架に向かう歩みの中で、神様が本来望んでおられることが何であるかをイエス様は明らか

にされてゆきます。今日の福音書においては「離婚」の問題がファリサイ人たちから提起されま

した。ファリサイ人たちはモーセの定めた手続きを理由にして離婚は許されていると考えていま

したが、モーセの定めた規定は「やむを得ず離別された妻がその後の生活に困窮することのない

ように」という配慮からのものであることを忘れて、後世の人々が「離縁状さえ渡せば離婚でき

る」と考えたことにそもそもの誤りがあることをイエス様は指摘します。



 イエス様は律法の片言隻句よりも律法の根本精神を出発点にして発言しています。旧約時代の救

いの歴史は主なる神(夫)と神の民イスラエル(妻)の出会いから婚約、結婚、そしてその破綻

と再建という比喩で語られます。(ホセア書)神とその民イスラエルの関係は結婚の関係に喩え

られ、それゆえ、現実の男と女の結婚の関係は神とイスラエルの間と同じく、くつがえされるこ

とのない堅固な絆として考えられているのです。



 この男女の結婚の絆は実はイエス様の十字架と復活の道にも通じるものなのです。すなわち、こ

の結婚の絆を生きようとするならば十字架の道と同じくすべてを捧げ、犠牲を払うことなしには

成り立たない道なのです。「好きだ」からという理由だけでは結婚できないのです。愛するとは

その人のために死ぬことだからです。人間にとって死はある意味で毎日死んでゆくことなのです

。つまり、私たちはこの
2006年10月6日という日は人生においてただ一回だけ、過ごすことが出

来るだけで、繰り返すことは出来ないのです。すなわち、今日を生き、今日を死ぬのです。



 この人生を誰とともに過ごすのか、誰のためならばそれを捧げることが出来るのか?という問い

に対する答えが「結婚」という姿、生き方なのです。だから性格も異なる男女が一緒に暮らすこ

とは時に十字架、時に復活の栄光という両面を持つものです。



 弟子たちは驚いて、「結婚しない方がましですね」と思ったほど、イエス様の教えは当時の人々

にとって、鮮烈でした。そして、それは今日も同じでしょう。
自分たちの人生は自分たちの勝手

に考えてよいものと思っている人たちには、神様が見えていないのですから。





                     









稲川神父様のお話


年間第28主日マルコ10:17〜30(2006年10月15日の福音朗読)

 エルサレムに向かう旅の途中、イエス様は様々な人々に出会い、ご自分に従う道を教えてゆか

れます。今回は金持ちの青年との出会いと教えが語られます。



 この青年はイエス様のところに走りよって、ひざまずいて尋ねます。「永遠の命を受け継ぐに

は何をすればよいでしょうか?」と。イエス様の答えはあっけないほど簡明です。それは当時の

人々がよく知っている「十戒」の示す掟でした。すると彼は答えます。「先生、それはみな子供

のころから守ってきました」と。周囲の人々は感心し、また彼も周囲の人々も「この人は間違い

なく、救われる人、永遠の命を約束される人」と考えたかもしれません。何故なら、神は律法を

守る人、正しい人を愛されるからと考えていたからです。



 ところが、イエス様は慈しみをこめて彼を見つめ、言われます。「あなたには足りないものが

一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に施し私について来なさい」と。イエス

様の言いたかったことはなんでしょうか?



 彼が十戒の掟をすべて守ってきたということは「盗まずとも暮らしてゆけるほどの財産をもっ

ていたから、うそをつかずとも暮らしてゆけるほどゆたかであったから・・・それは彼自身の努力と

いうより、親から受け継いだもので恵まれていたから人を蹴落としたり、欺いたりせずとも生き

てこれたのです。



 彼はこれまでの人生で「神を悲しませるような悪いことはしていません」、つまり律法の範囲

の中で生きてきました。しかし、「神様を喜ばせるような良いことをしてきた」とも言えません

。イエス様の考えでは永遠の命とは「義務を果たしたから与えられる権利」のようなものとは違

います。進んで神と人とを喜ばせる働き、祈り、心を持っている人を幸いな人と呼ばれるのです

。エリコでであったザアカイがイエス様に言われたからではなく、自分から進んで「もし、誰か

に迷惑をかけていれば、
4倍にして償います。貧しい人に施します」と言い出した時、イエス様は

喜び「この人もアブラハムの子、今日この家に救いが来た」ことを宣言しておられます。



 人に迷惑をかけるようなことをしてはいけない、それは人間の社会の基本的な原則です。しか

し、イエス様の福音の原則は、それ以上なのです。あなたが出来ることを進んで(命令によって

ではなく、自発的に、自分で探しながら)行なう時こそ、神の国に一歩近づくのです。





                     









稲川神父様のお話


年間第29主日マルコ10:35〜45(2006年10月22日の福音朗読)

 今日の福音は、イエスさまの第三回目の受難予告のすぐ後に続くエピソード
です。ゼベダイの

子らの見当違いな願いをきっかけに、教会を成立させる本質
が「仕えること」であるとイエスさ

まは教えられます。



 マタイ福音書では、ゼベダイの子らの母が息子たちのために願いを発していますが、マルコ福音

書では直接、二人が願い事を持ち出しています。最初の受難予告ではペトロの信仰が称えられ、

また首位性が約束されていますが、三回目の受難の予告を聞いたにもかかわらず、今度は、ペト

ロとならび称されるあの二人の兄弟が、あいかわらずイエスさまのメシアであることを地上にお

ける王のようになることと受け止めており、右大臣・左大臣のポストを約束して下さいと願って

おります。しかもその願い方はかなり露骨で、直接的です。



 「わたしたちがお願いすることをかなえて下さい」とは、先週の金持ちの青年の態度と比較して

もかなり、自己中心的な響きがあります。この二人はかつてペトロとともにイエスさまの変容の

栄光を目撃しているだけに、(しかも、この変容のことはイエスさまから話してはならないと口

止めされているだけに)、受難ということもモーゼやエリヤを従えるこの御方に、絶対に敗北は

ないと確信していたのかもしれません。



 この願いに対してイエスさまは「栄光」よりも「栄光に至る道」つまり「苦しみ」について語り

ます。それが「杯と洗礼」という表現であらわされています。旧約聖書では「杯」はしばしば「

苦しみ」を意味します。(詩篇75:9、
イザヤ51:17〜22、エレミヤ25:15、エゼ

キエル23:31〜34)
洗礼も「水の中に沈む」という意味でしばしば非常に大きな苦難の体

験を表わしています。(詩篇42:8、69:2,15、イザヤ43:2、ルカ12:50も参

照)



 イエスさまは低くされることを喜べと教えられます。仕えることに喜びがあると教えられます。

このことがわからないとキリストの教えが理解できないと
思います。そのことを実践できた人が

わたしたちの時代にもいます。それがマザーテレサです。彼女ほど単純に、澄み切った心でこの

ことを喜んで受け入れた人はいないかもしれません。ゼベダイの子らの願いは自己実現を求めて

いますが、イエスさまは御父の望みを実現することを望んでいるのです。キリストに従う、キリ

ストを信じるのは自分の願いをかなえてもらうためではありません。そのことがわかってもあな

たはキリスト者でありつづけますか?





                     









稲川神父様のお話


年間第30主日マルコ10:46〜52(2006年10月29日の福音朗読)

 今度の日曜日にはマルコ福音書の10章に記されているエリコでの奇跡のエピソードが朗読さ

れます。エリコはヨシュア記2〜6章に記されているように
イスラエルの先祖たちがヨルダン川

を渡り、約束の地に入り最初に得た町です。



 昔も今も交通の要衝の地でした。ヨルダン川にそって南北に移動する人々がエリコからエルサ

レムへと大きな交差点のような町でした。そして、この町ではイエス様と収税人の頭ザアカイの

出会い、イエス様と盲人バルテマイの出会いがあり、イエス様に出会ったこの二人の人物はこれ

までの人生とこれからの人生が大きく変わるのです。



 二人ともなかなかイエス様に近づくことができません。それでもあきらめずにバルテマイは叫

び声を上げ、民衆に叱られてもなりふり構わず求め続けます。ザアカイもまた民衆に笑われても

木によじ登ってイエス様の姿を捜し求め続けます。やがてイエス様の方から声をかけて下さいま

す。



 バルテマイは上着を脱ぎ捨てて、イエス様のところに近づいてきます。この当時の物乞いは上

着に大きなポケットのような袋を縫いつけており、喜捨物やお金を戴いていました。この上着を

脱ぎ捨てるという行為はバルテマイがすでに「自分の目をイエス様に癒していただける」という

確信を持っていたことを表していると思います。イエス様は信仰をもって自分を求める人を決し

てお見捨てにならないことをバルテマイはエリコを通り過ぎる人々の話から感じ取っていたので

す。エリコの住民たちもイエス様のうわさは聞いていましたがバルテマイのような信仰の確信は

もっていませんでした。だから初めはバルテマイを叱りつけ、黙らせようとしていたのです。と

ころがイエス様が「その人をつれて来なさい」と言われた一言によって、エリコの住民の心が変

わります。



 原語では「タルーセイ」(ギリシャ語:元気を出しなさい。よかったね。さあ今こそ…という

ような励ましの言葉)と記されています。エリコの住民の閉ざされていた心がイエス様の一言で

変わったのです。これこそが奇跡ではないでしょうか?バルテマイの目が見えるようになること

も奇跡ですが、人々の心が一言でバルテマイに対するやさしさや共感、励ましへと変わったので

す。目が見えるようになったバルテマイはイエス様の後に従って歩みだしました。イエス様のも

う一つの名は「人生をともに歩む師であり、友であるお方」なのです。