聖書研究





稲川神父様のお話


年間第31主日マルコ12:28b〜34 (2006年11月5日の福音朗読)

 マルコ福音書の11章はイエス様がエルサレムに到着したことが記されており、そこからイエス

様を様々な人々が試そうとして論争を仕掛けます。それは全部で五つあります。@
112733

ではイエス様の権威をめぐって、Aさらに
121317節では納税をめぐって、B1827節では死

者の復活をめぐって、
C最大の掟をめぐって、Dメシアとダビデをめぐっての五つです。これら

の論争の中には後々に伝えられる有名な言葉が数多く出てきます。



 今日の福音朗読の箇所はその中のひとつ、「最大の掟」についてです。当時のイスラエルの人

々には二つの傾向がありました。モーセの律法を細分化し、さらに注釈や規定を増やしてゆくと

言う傾向です。そして、もう一つの傾向はあまりにも複雑化してわけがわからなくなってしまう

ので「要するに律法とは何か」と言うことを端的にあらわすものを模索するというものです。律

法を一言で言えば「イスラエルの神が聖なる方であるゆえに神の民、イスラエルも聖なるものに

なれ」というレビ記の
19章の一節を律法の要約と考えている人々もいました。そのほかにもこれ

だ、いやあれだとこのことについても確定した結論が出ていませんでした。



 そこで今日は律法学士が登場してきます。この律法学士は他の論争に見られるイエス様の敵対

者とは違った雰囲気をもっています。「この議論を聞いていた律法学者の一人がイエスの巧みな

答えぶりを見て、進み出た」と記されているように彼の中には必ずしもイエス様に対する悪意や

批判的な態度がありません。



 イエス様の答えは単純明快でした。第一の掟は申命記6章4〜5節から、第二の掟はレビ記19

18節から、そしてこの掟は一つに結ばれているという主張こそ、イエス様の特長でした。第一

の掟と第二の掟は別々の掟ではなく、コインの両面のように表裏で一体をなすものであるという

点が他の人々の考え方を凌駕しているのです。「見えざる神を愛することは見える人間を愛する

ことを通してしかありえない」というこの心は「これらの小さな人々にしたことは、私にしたこ

と」という言葉にも表れています。律法学士は自分がおぼろげに考えていたことがイエス様の言

葉によって明確になったことを喜んで受け入れています。神と隣人を愛することがどんな犠牲に

もまさる捧げ物であると彼は言明しています。イエス様もこの答えを聞いて「あなたは神の国か

ら遠くない」と珍しくこの律法学士の信仰理解を評価しています。しかし、「遠くない」のであ

ってまだ「入ってはいない」とも受け止められるイエス様の答えです。神の国に入るためには「

それを行うこと」が必要なのです。




         


    








稲川神父様のお話


年間第32主日マルコ12:38〜44 (2006年11月12日の福音朗読)

 今日もマルコ福音書の12章から朗読がなされます。エルサレムの神殿の境内においてイエス様

は話しておられます。ファリサイ人や律法学士たちの欺瞞と真実について語られたその直後に小

さな出来事がありました。それはイエス様以外の人々には目に触れることのないようなささやか

な、しかしイエス様にとっては偉大な出来事でした。



 エルサレムの神殿には毎日、数多くの人々がやってきます。そして自分の願い事をかなえてい

ただこうといけにえを捧げたり、献金をしたり毎日が日本で言えば初詣の時のような混雑です。

現代の私たちには分かりにくいことですが多くの献金をする人々のためにはラッパが吹き鳴らさ

れたり、その行為が人々の目を引くように演出されていました。そんなことをと思うかもしれま

せんが今でも日本のお祭りなどの寄付金が金額入りで掲示されたり…ということを考えると…今

も昔も変わらないことであるのかもしれません。



 ヨーロッパの教会でもパトロンになったメディチ家の紋章が教会の天井を飾っていたり、絵画

の中に聖人にまざってパトロンが描かれていたり、また現代の日本の教会でも教会の聖堂の建築

に当たって寄付をしてくれた人々の名簿を壁に飾っていたり…人間の名誉欲には限りがないよう

です。



 お釈迦様の物語にも貧者の一灯というエピソードがありますが、イエス様は貧しいやもめが近

づいてきて、恥ずかしそうに、献金をそっと投げ入れた姿を見て、弟子たちを呼び集められまし

た。「見なさい。このやもめは誰よりも多くを入れた」と。弟子たちの中には「たった二レプタ

なのに」と思っていた人もいたかもしれません。しかし、イエス様は叫ぶように、宣言するよう

に語られます。「他の人は有り余っている中でその一部を入れたに過ぎない。このやもめはもっ

ているすべてを捧げた」と。



 この献金を入れたやもめ自身さえも「こんなわずかなものでもうしわけありません」という気

持ちだったと思います。しかしイエス様は見落としません。その人の本当の気持ちとその人の行

いを知っています。神様により頼むほかすべを持たない人の叫びや願いを最優先される父なる神

の御心をイエス様は語られます。「知恵ある人、賢い人には隠し、これらの人々、幼子に示され

ること、これが父の御心である」と宣言されています。私たちは何を捧げますか、私たちはどん

な心でそれを捧げていますか?イエス様は私たちについてなんと言われるのでしょうか?



         


    








稲川神父様のお話


年間第33主日マルコ13:24〜32 (2006年11月19日の福音朗読)

 年間主日も今日が最後となり、来週は一年の典礼暦を締めくくる王であるキリストの祭日が祝

われ、翌週からは
C年の待降節となり、また新しい典礼暦が始まります。今日の福音はマルコ福

音の
13章が朗読されます。この13章は聖書学者たちによって「マルコの小黙示」と呼ばれること

があります。



 エルサレムに入城したイエス様に最期の時が近づいています。神殿に来た弟子たちが、その神

殿の見事な建築を褒め称えているとイエス様がエルサレムの将来について語りだします。イエス

様の言葉はやがて、西暦
70年、ローマ皇帝ティトュスによるエルサレム陥落となって実現します

。エルサレムの神殿が崩壊してしまったことは初代教会にとって二重の意味を持つことになりま

した。



 一つは旧約の時代の完全な終わりであり、もう一つは神様の臨在はエルサレムの神殿に限られ

るものではなく、復活したイエス様の共同体、すなわち教会にあるという確信が深められてゆき

ます。



 今日の朗読箇所はそれに続くもので、世の終わりのときのありさまが目次文学的な表現で語ら

れています。大切なことは天変地異や戦乱、災害はいつの時代にも起こるものであること、しか

し、それは世の終わりすなわち破壊の時ではなく、救いの完成の時であることとして理解すべき

ことなのです。



 イエス様ははっきりと言われています。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」

と。御子さえも惜しまれずこの世に使わされた御父が人間を滅ぼすことではなく、救うために世

を完成されることへの信頼を失わないようにとイエス様は強調されているのです。さらにこの世

の完成の時がいつであるかについては父なる神様に委ねられていることなのです。



 それゆえに、その終わりの時を知らないわたしたちはいちじくの木の教えから学ぶことが大切

なのです。それは「時のしるし」を読み取ることです。世の終わり、救いの完成の時は「今」と

いう時間の積み重ねの中に始まっていることなのです。今という時を有意義に生きる人でなけれ

ば、その時を迎えるときに平静さを失ってしまうのです。「すべてに時がある」と伝道の書は語

っていますが、私たちに生まれてきた時があるように、私たちはこの世から離れる時も
必ずやっ

てくるのです。しかし、それは「人の子」が近づいている時であることを決して忘れてはならな

いのです。



         


    








稲川神父様のお話


王であるキリスト ヨハネ18:33b〜37 (2006年11月26日の福音朗読)

 いよいよ年間主日も最後です。典礼暦B年も今度の日曜日 王たるキリストの主日を祝います。

さて、福音朗読の箇所はヨハネ
18章です。ローマ人でありその当時の全世界といっても過言では

ないほどの領土を持つローマ帝国の総督としてユダヤの地を治めていた人物、すなわちピラトと

イエス様の姿が語られます。ローマ総督はユダヤの王よりも権限があり、イエス様だけでなくイ

スラエルという民族、ユダヤという国の生命を握っていた人物です。



 イスラエルの民衆はイエス様をメシア王として理解していました。もしイエス様がイスラエル

の解放のため武器をとってローマ帝国と戦えと言えば、民衆は喜んで従ったことでしょう。しか

し、かろうじてローマ帝国に生存を許されているユダヤ国家の指導者たちにとっては大変、危機

を感じさせることでした。
当時の政治的指導者を恐れず、宗教的な指導者のことばよりもナザレ

のイエスのことばを喜んで聞く民衆の姿を見るにつけ、「この人はやがてユダヤの新しい王にな

ると言い出すだろう」「もし、本人がそう言わなくても民衆たちがナザレのイエスを担ぎ上げて

暴動を起こすかもしれない」そうなってからでは遅い、多くの人々が犠牲になるよりも一人の人

の犠牲ですむならば、と思ったのです。



 ユダヤ人の大祭司、長老たちはついにイエス様をとらえ、なきものにしようと裁判に掛けまし

た。しかし、彼らには政治的な理由で死刑にすることは出来ません。そこでピラトの下に連れて

ゆき、ローマの皇帝に叛旗を翻す人物、ローマの支配を認めない王となろうという告発がなされ

たのです。しかし、ピラトもナザレのイエスの姿にそのようなものを見出すことが出来ず苦慮し

ます。
罪のないこの人をなぜ殺したがるのか、憎くもないこの人になぜ自分が死刑を宣告しなけ

ればならないのか。この裁判のシーンは裁かれているのはイエス様ではなくユダヤ人とイエス様

の間に立たされて板ばさみとなっているピラト自身なのです。ピラトはこの告発が一部の人々の

ねたみや疑いの心から出ていることを感じていました。しかし、その人々に煽動されて暴動寸前

になっているイスラエルの民衆も恐ろしいものです。ユダヤの地で暴動が起こればピラト自身も

失政としてマイナスの評価になってしまいます。



 ついにピラトは保身のため、とりあえず事態を沈静化するため、ユダヤ人の気持ちをなだめる

ためとイエス様を殺すことを認めてしまいます。決して心からではなく、心ならずも妥協してし

まいます。私たちもこころならずもイエス様を悲しませるようなことをしてしまいます。それで

もイエス様は進んで十字架を私たちのために担って下さるお方、愛の勝利と栄光を示す王なので

す。