聖書研究





稲川神父様のお話


待降節第一主日 ルカ21:25〜28、34〜36 (2006年12月3日の福音朗読)

 今度の日曜日から待降節が始まります。待降節は二重の特長をもっています。

それは、まず神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祝祭のための準備の期間という意味です。そ

して、さらにその追憶を通して終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間で

もあります。この二つの理由から待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかにな

るのです。



 待降節のこのような性格は、四つの主日の朗読個所にも反映しています。


待降節第一主日 ルカ21:25〜28,34〜36

 エルサレムの滅亡と終末  「目覚めて時を待つ」

                      「喜びをもって時を待つ」

待降節第二主日 ルカ3:1〜6 洗礼者ヨハネの宣教 T

           「主の道を備えよ」

待降節第三主日 ルカ3:10〜18 洗礼者ヨハネの宣教 U

           「それでは私たちは何をしたらよいのでしょうか?」

待降節第四主日 ルカ1:39〜45 マリアのエリザベツト訪問

       「主の御母が私を訪れて下さるとは何と言う栄光でしょう」


 待降節第一主日の朗読は、エルサレムの包囲(20〜24節)のすぐあとに続く個所です。エ

ルサレムの滅亡が、人の子の来臨の一つの段階であったのは教会が万民に門を開き、一つの民族

、血族、神殿を超える宣教と礼拝を始めたからであり、それゆえ「恐れずに、頭を上げ、解放が

近づいた」ことを喜ぶのです。



 ルカはこのようにエルサレムの滅亡をキリスト教の新しい始まりとして、つまり全世界への宣

教への出発と理解していることは大切なことです。当時の教会にはユダヤ人こそキリストの教会

においても主流を占めるものであり、律法を知らない異邦人からの改宗者を軽視するという「会

堂の誘惑」がありました。これを私たち現代の教会に当てはめてみると長い信仰生活を送ってい

る人たちに対する警告となります。いつのまにか自分たちのやり方が最高と思い込み、
新しい人

々や新しい試みを排除しようとする傾向が見られるのです。


新しい酒は新しい皮袋にというキリストの警告を忘れずに待降節を過ごしましょう!



                  


    








稲川神父様のお話


待降節第二主日 ルカ3:1〜6 (2006年12月10日の福音朗読)

 待降節第二主日の福音朗読にはティベリウス皇帝、ポンティオ・ピラト総督、ヘロデ王、アビ

ネレの領主リサニアの名前が登場します。異邦人キリスト者に時代を明示するためにルカはこの

ような手法を用いました。そしてなによりも大切なのはキリストの到来を告げる洗礼者ヨハネが

登場することです。今週と来週にわたって洗礼者ヨハネの宣教に関わるメッセージが待降節、す

なわちキリストを迎える準備として何をすべきかについて考える時なのです。

         

待降節第二主日 ルカ3:1〜6 洗礼者ヨハネの宣教 T

           「主の道を備えよ」

待降節第三主日 ルカ3:10〜18 洗礼者ヨハネの宣教 U

           「それでは私たちは何をしたらよいのでしょうか?」


 「主の道を整えよ」旧約聖書では「道」ということばは706回の使用例があります。宗教的

な意味では「神のなされ方」、「神によって求められている人間の行為」、人間のおかれている

「状態」などを意味し、特に「歩く、行く」という動詞を伴うと「道」は人間が生涯をかけてた

どる道程、人間の行くべき方向、歩く態度を示しているのです。神はこの道の導き手(詩篇23

)、生命の道を示される(詩篇16:11)、いつくしみの道(詩篇25:10)、平らなもの

とされ、目的の地まで導かれるのです(詩篇91:11〜12)。



 私たちの生き方は「まっすぐでしょうか?」、いろいろなものに気を取られ神様の御心にかな

うことよりも自分にとって楽しい事にフラフラと足を向けてしまっていることはないでしょうか

?私たちの心は「平らでしょうか?」、石ころだらけ、あるいは泥沼のように足をとられて身動

きの出来ない状態でしょうか?あるいは草が背丈よりも高く生い茂って見通しが利かずに迷子の

ようになってはいないでしょうか?



 今、「自分はこのために、このような生き方をしている!」とはっきり言える人は幸いです。

何となくは生きているけれど、それほど不幸でもないけれど、でも満ち足りてもいない…という

ような人が多いのではないでしょうか?福音とはそのような無気力から立ち上がらせる力をもっ

ているのです。キリストの語る言葉、教え、その姿、その声に気がつけば、私たちも変わるので

す。



                  


    








稲川神父様のお話


待降節第三主日 ルカ3:10〜18 (2006年12月17日の福音朗読)

 待降節第二〜三主日は洗礼者ヨハネの登場とその宣教について語られます。

洗礼者ヨハネは、当時のユダヤの人々に圧倒的な人気がありました。その姿はエリヤ(旧約の預

言者の代表者)を思わせるような風貌であり、そのメッセージは律法のがんじがらめに縛られた

心に「新しさと力強さ」感じさせたからです。



 さて、今日の福音では一般民衆、徴税人、兵士という当時の人々を代表する三種類の人々が洗

礼者ヨハネに近づいて、各々、「私たちはどうすればよいのですか?」と尋ねています。洗礼者

ヨハネにはこれまでの考え方からすれば、救われるに値しないと思われていた人々が殺到してい

ます。



 洗礼者ヨハネは、冷ややかな目で、自分を疑って見ている律法学士やサドカイ派の人々に対し

ては「まむしのすえよ」と激しいことばで回心を呼びかけています。ヘロデ王の不行跡を恐れず

に咎めます。(マタイ3:7、ルカ3:19)



 しかし、洗礼者ヨハネは、律法学士やファリサイ人から見れば救いに値しないと思われるよう

な人々の問いかけに対しては、きわめて現実的、具体的、実践的な答えを示しています。すなわ

ち、彼の答えはきわめて常識的なことであり、いわば次の一歩を示すものでした。本当の真理と

は、難しい理論、一部の
人しか実行できないような教えではありません。マザーテレサのことば

にも共通したことが言えると思いますが、真理とは理論ではなく、人の心を感動させるもの、こ

れなら私もできると立ち上がらせるものであるのです。



 しかし、ひとつだけ真理に従って歩もうとする人々に求められる決意があります。それは過去

の自分のあり方に訣別することであり、洗礼者ヨハネが求めている神の国を迎えるために必要な

回心なのです。これまでの自分の考え方や
やり方に拘泥している人には、回心がありません。一

部分の修正では「改心」
であっても「回心」(全面的な神への信頼に基づく生き方への転換)で

はありえないのです。まだどこかに条件を付けている。まだどこかに自分のやり方に拘っている

。新しい世紀に古い自分を引きずってゆきますか、それとも洗礼者ヨハネが呼びかけているよう

に、全くの新しさの中に身を投じてゆきますか?


                  


    








稲川神父様のお話は、12月24日〜1月7日までお休みとなります。
2007年度1月の再開を、楽しみにお待ちください。