カトリック神田教会130年年表
明治期
1872年(明治5年);パリ外国宣教会の司祭たちが、三番町に外国語を教授する名目で「ラテン学校」を作り、英語・フランス語・ドイツ語の他、ラテン語を教え始めた。
1873年(明治6年);明治政府が禁教の高札を撤去し、次第に取締りを緩和。
1874年(明治7年)1月;ラテン学校は、旧旗本屋敷(約3000坪)を入手し、神田の猿楽町に移転。そして、聖フランシスコ・ザビエルを保護の聖人とする聖堂を持ったが、この聖堂こそが、神田教会の発祥である。
1877年(明治10年)7月8日:オズーフ司教が横浜天主堂において日本北緯代牧区司教着座式。師は築地教会の北東隣に約96坪の司教座聖堂(1878年(明治11年)8月完成)を計画。その間、神田教会は仮司教座聖堂となる。
1877年(明治10年)8月:ラテン学校は閉鎖され、神田教会に初代主任司祭としてペティエ師が任命される。
1881年(明治14年):シャルトルの聖パウロ修道女会が、神田教会の敷地内に招聘され後年白百合学園となる学校事業(施療院・孤児院・小学校)を開始。
1887年(明治20年)7月:女子仏英学校(後の白百合学園)が開校。
1888年(明治21年)1月;ヘンリック師を長とする5名のマリア会員が神田教会に居住し、日本語の学習を始め、同時に塾(後の暁星学園の前身)を開く。
1891年(明治24年)6月:第3代主任司祭パピーノ師により、東京最初の聖体行列が催された。
1891年(明治24年)6月15日に東京大司教区が設立され、オズーフ司教は大司教に就任。同年、神田教会に信心会として「聖体会」・「聖母会」が作られた。
1896年(明治29年)10月28日:パピーノ師が設計した本格的なゴシック式聖堂(126坪)が完成。
1905年(明治38年):第6代主任司祭としてシェレル師が着任し、同師は1938年(昭和13年)まで33年間にわたり神田教会を司牧を担当。
1908年(明治41年):神田教会内に公教青年会館落成。
大正期
1913年(大正2年)2月20日:神田一帯の大火によりパピーノ師設計の神田教会聖堂が焼失。仏英和学校も消失。6月に仮聖堂が建てられた。
1915年(大正4年)3月14日:シェレル師設計のレンガ造り聖堂(147坪)が落成。
1923年(大正12年)9月1日:関東大震災により神田教会聖堂が倒壊・全焼。仏英和学校も全焼し、その後九段坂上に移る。
昭和期
1928年(昭和3年)12月9日:火事・地震の両方に強い建築を目指した鉄骨・鉄筋コンクリートで、ルネッサンス・ロマネスク様式による新聖堂の献堂式が行われた。設計はスイス人建築家マックス・ヒンデル氏、施工は宮内初太郎氏。
1930年(昭和5年)12月:聖堂内陣、聖器室を拡張し、30余坪を増築。
1937年(昭和12年):ジャンボン大司教に代わり土井大司教が任命される。
1938年(昭和13年)1月:32年5ヶ月神田教会の主任司祭であったシェルレ師が保土ヶ谷教会に転任。後任に初めて邦人司祭である内野作蔵師が第7代主任司祭として着任。
1940年(昭和15年)10月:第8代主任司祭として下山正義師が着任。
1942年(昭和17年)1月:第9代主任司祭として志村辰弥師が着任。
1944年(昭和19年)6月:第10代主任司祭として佐藤光幸師が着任。1989年(平成元年)まで45年間、司牧を担当された。
1945年(昭和20年)4月13日・20日:神田教会は二回に亘る空襲に遭ったが、聖堂だけは、ほとんど無傷で焼け残る。佐藤師は香部屋に住まわれ、罹災者家族の巡回訪問につとめた。10月には早くも聖歌隊が結成された。
1946年(昭和21年)11月:神田教会での戦後最初の堅信式が土井大司教の司式で執り行われる。12月24日に、神田教会聖歌隊の歌が初めてラジオで放送された。
1949年(昭和24年)6月18日:聖フランシスコ・ザビエル来日400年祭のため、その聖腕が日本国内を巡回し、神田教会にも安置され、盛儀を執り行う。
1951年9月:信者全体の親睦と連絡強化のため、従来のロザリオ会などを統合して「聖心会」が発足した。
1952年(昭和27年)7月:関口教会聖堂は小規模な聖堂だったので、土井大司教様は、神田教会をプロカテドラル(仮司教座聖堂)とされた。(1966年12月まで)。
1953年(昭和28年)5月24日:聖霊降臨の大祝日に聖堂改修のための第1回のバザーが開かれる。
1956年(昭和31年):ウィーン少年合唱団が神田教会を訪問。
1959年(昭和34年)12月25日:NHKテレビなどで神田教会のミサが放映。
1974年(昭和49年)4月14日:創立100周年記念の新しい信徒会館が完成し復活祭に祝賀が行われた。この信徒会館は、村上富美子さんが、妹マリア・ソフィア赤倉光さんの遺言により、神田教会に寄付をされたことが契機である。
1974年(昭和49年)10月10日:白柳大司教臨席のもと、教皇パウロ6世の祝辞も読み上げられ盛大に創立100周年の記念ミサ・祝賀行事が行われる。
1979年(昭和54年)5月:前年8月に着工した司祭館が竣工し、祝賀が行われた。
1979年(昭和54年)9月24日:白柳大司教・内山師・井出師・塚本師の司祭叙階25年の祝典が神田教会で行われた。参列者350名余。
1981年(昭和56年)2月23日:教皇ヨハネ・パウロ2世来日。翌24日、後楽園スタジアムでミサ。神田教会は各教会の集合場所となり、婦人会が尽力。
1983年(昭和58年)2月:西ドイツよりパイプオルガンが横浜に到着。3月神田教会2階聖歌隊席に組み立て。4月3日の復活祭のミサに先立ち祝別。
1983年(昭和58年)6月26日:佐藤師の司祭叙階50年の金祝のミサと祝賀会。白柳大司教臨席。
平成期
1989年(平成元年)5月:佐藤師が高齢のため引退され(在任45年)、第11代主任司祭として荻窪教会主任司祭泉富士男師が着任。佐藤師は1990年(平成2年)8月帰天。
1990年(平成2年)6月:従来のバザーに代え、信徒交流会を開催。8月、聖堂玄関前に聖母子像を建立。
1992年(平成4年)8月:中庭に「よき牧者イエス」像を建立。12月に玄関の階段横にスロープを設置。
1993年(平成5年)8月15日:聖堂正面祭壇背後の窓のステンドグラス除幕式。
1994年(平成6年)3月:従来の季刊「聖心」誌に代わり、B5版の聖心ニュースを毎月発行。5月聖霊降臨の祝日に信徒研修会を開催(=1997年(平成9年)まで実施される)。
1995年(平成7年)9月:同年1月に阪神淡路大震災があり、聖堂・外塀の大改修工事開始。聖堂内部の補強補修工事。聖堂外壁亀裂への接着剤注入、洗浄、外塀の取替えを行う。
1997年(平成9年)2月;聖堂内部両側のステンドグラス除幕式。後部窓のものは5月に完成。作者はポーランドのマリア・テレサ・レクレフスカ女史。
1997年(平成9年)4月:第12代主任司祭として西千葉教会主任司祭の酒井俊男師が着任。12月、待降節中に初の共同回心式と黙想会を実施。
1998年(平成10年):非常口表示その他防災設備を整備。
1999年(平成11年)5月23日:聖霊降臨の大祝日に、神田教会創立125周年を祝う。祝賀式・バザー・ミニコンサート・聖体賛美式を行う。同年秋には、酒井師の司祭叙階25年の銀祝のお祝いを行った。
2000年(平成12年)4月:第13代主任司祭として稲川保明師が着任。すぐに教会施設の改装・補修を行い、伝統ある教会聖堂の整備に心を尽くされた。
2000年(平成12年)9月3日:新たな東京大司教として岡田大司教の着座式が行われた。2001年(平成13年)6月には、東京教区小教区再編成に向けた文書「新しい一歩」を出される。
2000年(平成12年)12月3日(日)、神田教会の保護の聖人である聖フランシスコ・ザビエルの聖遺骨が、白柳枢機卿の手により安置された。ミサ後、祝賀会開催。山口のザビエル記念聖堂、鹿児島のザビエル教会に続いてわが国では3番目の聖遺骨安置。
2001年(平成13年)2月11日:稲川師の司祭叙階20周年のお祝いとホームページの完成。
2001年(平成13年):神田教会がカテドラルであった時の使命と精神を忘れないように、第6代東京教区長土井辰雄枢機卿の司教座を左脇祭壇前に設置。
2001年(平成13年)12月:神田教会聖堂が、わが国の登録有形文化財に指定された。
2002年(平成14年)7月:中庭にマドンニーナを設置し、8月15日の聖母被昇天の祝日には、「中国・上川島での臨終のザビエルの絵」が安置・祝別された。
2002年(平成14年)8月:信徒会館の内装・設備の改修を終えた。
2003年(平成15年)4月、神田教会は大島教会・麹町教会・築地教会と一緒に新たに「中央・千代田宣教協力体」を構成し、協力して活動を行うことになった。世話人司祭は稲川師で、2ヶ月に一度持ちまわりで会合を持つ。
2004年(平成16年)4月:稲川師は、築地教会の主任司祭を兼任されることとなった。