主日(日曜)の聖書



 神の母聖マリア 2004,1.1

幼子はイエスと名付けられた
(ルカ 2.21より)






ルカによる福音 (ルカ2.16−21)

そのとき、羊飼いたちは〕
急いで行ってマリアとヨセフ、
また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を捜し当てた。

その光景を見て、〔彼らは、〕
この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。

聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。

しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。

羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、
神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。
これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。









主の公現 2004.1.4

 わたしたちは東方から王を拝みに来た
(福音主題句 マタイ2・2より)






マタイによる福音 (マタイ2.1−12)


イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。
そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、

言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。
わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。
エルサレムの人々も皆、同様であった。

王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、
メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。

彼らは言った。
「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

『ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。
お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、
星の現れた時期を確かめた。

そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、
見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」
と言ってベツレヘムへ送り出した。

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、
ついに幼子のいる場所の上に止まった。

学者たちはその星を見て喜びにあふれた。

家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。
彼らはひれ伏して幼子を拝み、
宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、
別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。









主の洗礼 2004.1.11

イエスが洗礼を受けて祈っておられると、天が開けた
(福音主題句 ルカ 3・21より) 





ルカによる福音 (ルカ 3.15−16、21−22)

そのとき、〕民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、
もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。

そこで、ヨハネは皆に向かって言った。
「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、
わたしよりも優れた方が来られる。
わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。
その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」

民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、
天が開け、

聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。
すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
という声が、天から聞こえた。









稲川神父様のお話


主の洗礼  ルカ3:15〜16、21〜23

 私たちの信仰生活の出発点は洗礼です。もちろん洗礼の以前にも神様を信じ、
祈りを捧げ、キリストの福音を受け入れてはいますが、洗礼は自分一人の信仰
ではなく、キリストの共同体としての信仰に入るという意味では、正式、公式、
決定的、そして超自然的な恵みなのです。


 イエス様も公の宣教生活のはじめを洗礼に結び付けています。ヨルダン川の
洗礼者ヨハネのところにやって来られた時、洗礼者ヨハネは、驚きました。
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」と、洗礼者ヨハネは「私
の後から来る方は偉大な方で、私はその方の履物のひもをとく値打ちもない」
と広言していたくらいですから。


 しかし、イエス様は一言、「こうすることが私たちにはふさわしいことです」
とお答えになりました。すると、さすがに洗礼者ヨハネです。イエス様の言わ
れる意味をたちどころに悟りました。


@イエス様は神のみ子です。その方が人間の仲間となるために人間の姿でこの
 世に来られたからには徹底的に、完全に人間、人の子として生きることを通
 して、人間に神の子となる道を示すためでした。
Aイエス様が水の洗礼を受けられることにより、ただの清めや洗い以上の意味
 が洗礼に加わりました。すなわち、イエス様の受けるべき洗礼は、十字架の
 苦難・死そして復活を意味していました(マルコ10:38)。こうして、イエス様が
 水の洗礼に新約時代の意味を加えて下さったのです。
B水は聖書の中で様々な意味に用いられています。ある時は生命のシンボルと
 して、そしてある時は、清め、滅び、死のシンボルとして、イエス様は、
 「私は生ける水を与える」(ヨハネ4:10)と言われています。「私が与える水は、
 その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と語っておられます。
 水はイエス様の与える聖霊のシンボルとなります。
Cやがて、イエス様は十字架上において、その開かれたわき腹から「血と水」
 を流されます(ヨハネ19:34〜35)。その瞬間に弟子のヨハネは新しい
 アダムであるキリストのわき腹から、新約のエワ、キリストの伴侶であり、
 花嫁である教会が誕生したことを悟るのです。洗礼者ヨハネが「水の洗礼」
 の意味を瞬間に十字架の死と復活につながることを理解したように、弟子の
 ヨハネもキリストの死が教会を誕生させるための道であったことを悟るのです。










年間第2主日 2004.1.18

イエスは最初のしるしをガリラヤのカナで行なわれた
(福音主題句 ヨハネ2・11より) 





ヨハネによる福音 (ヨハネ 2.1−11)

〔そのとき、〕
ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。

イエスもその弟子たちも婚礼に招かれた。

ぶどう酒が足りなくなったので、
母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。

イエスは母に言われた。
「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。
わたしの時はまだ来ていません。」

しかし、母は召し使いたちに、
「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。

そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。
いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。

イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、
召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。

イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」
と言われた。
召し使いたちは運んで行った。

世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。
このぶどう酒がどこから来たのか、
水をくんだ召し使いたちは知っていたが、
世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、

言った。
「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、
酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、
あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」

イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行なって、
その栄光を現された。
それで、弟子たちはイエスを信じた。









稲川神父様のお話


年間第二主日 ヨハネ2:1〜11

 クリスマスの典礼季節が終わってから四旬節が始まるまでの間、年間′と呼ば
れる日曜日が数回続きます。年間と呼ばれる主日には、イエス様の公生活、す
なわち宣教の活動の一場面が朗読されて行きます。


 さて、今度の日曜日はヨハネ福音書だけ記されているカナの婚礼での出来事
です。ヨハネ福音書の1〜12章はしるしの書とよばれているほど、イエス様
の「七つのしるし物語」を中心として、イエス様が誰であるか、またそのイエ
ス様を信じることとはどのようなことであるか、ということを意味深く展開し
て行きます。


 カナの婚礼
@「三日目に」とは?
A「イエスの母がそこにいた」とは?
B「婚礼に招かれていた」:婚礼という出来事の意味することは?
C「婦人よ」というイエス様のことばの意味は?
D「この人の言う通り、何でもして下さい」という母の言葉は?
Eしもべたちの行ったことは?
F「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」という世話役の驚き?


 ヨハネはイエス様の行う不思議なわざを「奇跡」とは呼ばずに「しるし」と
呼んでいます。(11節) これには深い意味があります。イスラエルの人々に
とって「信仰」は「アーマン」と「バータハー」という二つの言葉に集約され
ていました。「アーマン」とは、私たちが祈りの最後に唱える「アーメン」とい
う言葉と同じ意味があります。すなわち「確かなこと」という意味です。

 ヨハネは私たちがイエス様と今日出会うために「確かな」手がかり=しるし
を残してくれているのです。それゆえ、私たちはそのしるしを手がかりにして
生きているイエス様を探すことこそ、信仰者の必要な態度、心構えなのです。


 ヨハネにとって信仰とは「受動的なもの」ではなく、しもべたちのように実
際に汗を流し、時間と手間をかけてイエス様とともに働く中で「やがて気がつ
くこと」なのです。「このお方だ!これをなさったのは!」と。









年間第3主日 2004.1.25

この聖書の言葉は、今日、実現した
(福音主題句 ルカ 4・21より) 





ルカによる福音 (ルカ 1.1−4、 4.14−21)

わたしたちの間で実現した事柄について、
最初から目撃して御言葉のために働いた人々が
わたしたちに伝えたとおりに、
物事を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。

そこで、敬愛するテオフィロさま、
わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、
順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。

お受けになった教えが確実なものであることを、
よく分っていただきたいのであります。

〔さて、〕イエスは″霊″の力に満ちてガリラヤに帰られた。
その評判が周りの地方一帯に広まった。

イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。

イエスはお育ちになったナザレに来て、
いつものとおり安息日に会堂に入り、
聖書を朗読しょうとしてお立ちになった。

預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、
次のように書いてある箇所が目に留まった。

「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に開放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、

主の恵みの年を告げるためである。」

イエスは巻物を巻き、係りの者に返して席に座られた。
会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。

そこでイエスは、
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」
と話始められた。







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