「日本二十六聖人」……時空を超えて



 教会暦の2月5日は、日本二十六聖人の祝日です。この二十六聖人とは、御存知のように、豊臣秀吉政権の下、1597年2月5日(慶長元年12月19日)に長崎の町や海を一望に見渡す西坂の丘で、あたかもゴルゴタの丘におけるイエズス様の如く十字架上で処刑された26人の殉教者のことです。 この拙文は、事件そのものや聖人各々について具体的に記すものではありません。二十六聖人の殉教に関して、当時から現代に至るまでさまざまに語り、描き、伝えた人たちの文書・作品や、その信仰・真心の一端を紙幅の許す限りスケッチしてみようとするものです。そして今年も灰の水曜日を迎え四旬節を過ごす私たちにとって、例えば受難、十字架の道行について、あるいは信仰と福音の証を隣人や後世に語り継ぐことについて、黙想する際に小さなヒントとなれば望外の喜びです。


1. 「二十六聖人」を語り継ぐ

 まず二十六聖人自身のうち、指導者のペドロ・バプチスタ神父のほか、パウロ三木、トマス小崎らが自ら認めた書翰には、いずれも彼らの真実が時に力強く、時に切々と記され、心に響きます。そしてバプチスタ神父の書翰8通(二十六聖人記念館の前館長結城了悟神父が邦訳)のうち、2月2日に唐津で記された最後の書翰は、「さようなら 天国まで。私のことを覚えていて下さい」との言葉で締め括られています。また、パウロ三木らの書翰は、イエズス会士ルイス・フロイスの『日本二十六聖人殉教記』に引用されています。この『殉教記』は、当時海外へ伝えられた報告としても代表的な文献であり、豊富な史料を駆使した貴重なものです。

 フロイスは、この事件から40日後の3月17日に記録を完了し、7月8日に長崎のコレジオで帰天しました。幕末に長崎を訪れた宣教師が二十六聖人の殉教地を特定するにあたり、本書の記述が重要な手掛かりとなりました。それもその筈、二十六聖人について記録された史料は少なく、国内でも当時から明治前期までは一部の歴史書、地誌、日記類などで言及されるに過ぎず、事実上殆どの日本人には忘れ去られた事件だったからです。

 一方、1862年6月8日(聖霊降臨祭)、教皇ピオ9世は、26人の殉教者について列聖式を執行されました。開国後ながら禁教下の日本で、遙かローマの地における列聖のことを知り得た者が果たして何人いたでしょうか。この列聖を機として彼らに対する崇敬は高まり、同じ年にローマの西北約70qにある港町チヴィタ・ヴェッキヤ市のフランシスコ会修道院では、二十六聖人記念聖堂が献堂されましたし、フランス人宣教師レオン・パジェスは『日本廿六聖人殉教記』を著しました。さらに、1865年2月にパリ外国宣教会のプチジャン神父が長崎に二十六聖人を保護聖人とする大浦天主堂を献堂したところ、その1ヶ月後にキリシタン信徒が発見されるという奇跡的な出来事があったことはよく知られています。ちなみに東京のカトリック教会では、本所教会が二十六聖人を保護聖人としています。

 さて、1887年に至って漸く一般の日本人に二十六聖人のことが知られるようになります。まず大阪天主堂が『日本廿六聖人致命略伝』を刊行しましたが、幕末に来日したパリ外国宣教会のヴィリヨン神父は、宣教師パジェスの『日本廿六聖人殉教記』を素材として殉教者の事跡を人々に説き、伝道師加古義一がこれを書き留めて同じ年に『日本聖人鮮血遺書』(やまとひじりちしほのかきおき)を刊行しました。この本は昭和初年まで版を重ねています。さらに1926年にキリシタン研究家で明治大学予科教授の松崎実は、これを補訂して『考註切支丹鮮血遺書』(きりしたんちしほのかきおき)を著しました。このうち、入江浩が「二十六聖人の殉教」と「日本殉教者一覧」を取り上げ、1996年に『現代語訳・切支丹鮮血遺書』を刊行しています。


2. 「二十六聖人」を演じる

 前掲の『考註切支丹鮮血遺書』を底本とし、上智大学教授であったホイヴェルス神父の脚本によって日活京都撮影所で制作された映画『日本廿六聖人』は、1931年から弁士つきで上映された無声活動写真です。これは欧米でも上映されました。 ここでは、当時の映画雑誌『シネマ王国』の特集記事などに基づき、これを少しだけ観てみることにしましょう。まずキャストを例示しますと、バプチスタ神父を山本嘉一、殉教者を追って自ら二十六聖人に加えられた大工のフランシスコ伝吉を片岡千恵蔵が演じ、二十六聖人以外では細川ガラシャを伏見直江、その侍女マダレナ桜木を山田五十鈴。昭和の名優たちが揃い、しかも出場者数は15000人だそうです。また、制作にあたって私財を拠出した平山政十は長崎浦上のカトリック信徒です。彼は、明治初年の弾圧時に浦上信徒の中心人物だった伯父の守山甚三郎から迫害のことを聞き、キリシタン殉教を主題とする映画を制作したいと望みました。その願いをホイヴェルス神父に相談したことが『日本廿六聖人』誕生の萌芽です。

  この映画は、1593年にバプチスタ神父らが小舟から九州の島々を眺め、平戸へ上陸するシーンから始まります。次いで物語は、京都での宣教師らの活動→豊臣秀吉との対面→1596年サン・フェリペ号の難破事件を発端とするバプチスタ神父や宣教師・信徒らの捕縛→家族や細川ガラシャ、高山右近らとの別離→長崎への道→西坂の丘での処刑と進み、イタリア国営撮影所が撮ったヴァチカン聖ペトロ大聖堂における列聖式の映像をもって幕を閉じます。まさに盛り沢山の80分です。映画は、戦後暫くして人々の記憶から遠ざかり、フィルムも失われたとされていましたが、これが1975年に千葉県内の教会で発見されました。長崎の聖コルベ記念館長小崎登明修道士(コンベンツァル聖フランシスコ会・長崎聖母の騎士修道院。お名前は霊名トマス小崎を表します)は、その複製フィルムを入手し、さらに映画の解説や梗概に基づいた独自のシナリオによって自ら弁士として全国で上映し続け、かつ著作でも紹介しています。 また、1939年には二十六聖人殉教の野外劇『日本廿六聖人』が長崎で演じられる話も具体化しました。

 これはアメリカの二十六聖人巡礼団の長崎訪問に応えようとしたもので、こちらもホイヴェルス神父が脚本を仕立て、聖ヨゼフ劇団が出演することになっていました。筋書きは上述の映画とは異なり、専ら西坂の丘におけるシーンです。聖歌「なべての」の合唱に始まり、朝の刑場周辺の様子が描かれ、殉教者、立ち会うイエズス会司祭ら、そして役人との遣り取りを中心に物語は進み、 十字架上のパウロ三木の説教に続いてバプチスタ神父が最後に「イエズス・マリア」と声を挙げてラストシーンを迎え、 教会の鐘が鳴り群衆が「敷島の」を合唱して終幕というものでした。しかし、折悪しく日米関係の悪化や第2次世界大戦の 勃発により、巡礼団の入国が叶わなくなって劇は中止を余儀なくされてしまいました。(以下、続く)


3. 「二十六聖人」を描く

 芸術作品として表現された二十六聖人。ここでは、画家長谷川路可、彫刻家舟越保武の作品とその心や眼差しに注目してみましょう。なお、作品そのものについて詳しく描写することは困難ですので、現地で直接味わっていただくか、あるいは文末に掲げた典拠文献などを繙いていただければ幸いです。

(a) 長谷川路可の「日本聖殉教者教会壁画」など
 1954年10月10日、イタリアのチヴィタ・ヴェッキヤ市にあるフランシスコ修道院附属の二十六聖人教会に、長谷川路可が描いたフレスコ画「日本聖殉教者教会壁画」が捧げられました。この壁画は、中央祭壇を囲むような5面構成です。第1面には十字架上の殉教者とその下の刑吏が3人ずつ描かれ、中央のバプチスタ神父は確信に満ちた表情で瞬きもせずに前方をしかと見据えており、その傍らには最年少12歳のルドビコ茨木の姿もあります。

  第2・3面は既に十字架につけられた殉教者やこれに続く殉教者、そして刑吏、涙に暮れる婦人たち。第4面は殉教者一行に大工のフランシスコが自ら加わる場面。第5面は諫早で長崎奉行から棄教を諭された13歳のアントニオが天を指して拒んだ場面ですが、その下端には合掌する長谷川路可自身が加えられています。また、天井画には中央の和服姿の聖母子像をはじめ、聖ザビエル、アッシジの聖フランシスコらが描かれています。これらは、いずれも縦5m、横3〜4mの大作で、フレスコ画と大和絵の手法をマッチさせたものです。

  殉教画とはいえ、流血シーンは描かれていません。彼は、「ぼくの絵では、ヤリをもったり、刀を抜き身にしたりしてるけれども、わき腹を突いたり、首を打ったりしてるとこをかかないのは、血なまぐさい感じを出したくなかったからです。教えのために命を捨てることは、よろこびであり感激のいたりであるという気持ちを、画面にあらわしたくって、暗い色を使わなかったんです。」(下記J)と真意を語っており、聖句「義のために迫害される人は幸いである。」(マタイ5:10)が想起されます。

 一方、二十六聖人記念館に展示されている1967年作の「長崎への道」は、大和絵を基本とする画風を用い、二十六聖人が京都で捕縛されてから長崎西坂で処刑されるまでを通観させるものです。この作品は、長谷川路可の遺作というべきもので、厳密には完成しませんでした。というのは、彼は作画中、ローマで教皇パウロ6世に謁見した5日後に急病で帰天したからです。 長谷川路可は、キリシタンの殉教を描いた作品のうち、1927年に「切支丹曼陀羅」を教皇ピオ11世へ、1951年に「切支丹絵巻」3巻を教皇ピオ12世へ献上しました。

 また、喜多見教会小聖堂には、1928年に彼が描いた日本初のフレスコ画があり、部分的に十字架上の処刑シーンも描かれています。かように、彼の宗教画にはキリシタンの殉教がモチーフの1つとして重要な位置を占めていますが、もちろんそれのみではなく、例えば鹿児島ザビエル教会には、彼の作品「ザビエル日本布教図」「上川島での臨終の場面」があります。

(b) 舟越保武の「長崎二十六殉教者記念像」
  1962年6月10日、日本二十六聖人列聖100年祭が長崎市の西坂公園で捧げられ、そこで彫刻家舟越保武の二十六殉教者記念像の除幕式が行われました。この西坂公園は、JR長崎駅から徒歩数分に位置し、急な坂を上り詰めると視界が開け、見る者を天上へ誘うかの如き清福なブロンズの十字架と聖人の彫像が現れます。その裏手には二十六聖人記念館があり、貴重な関係資料の宝庫です。御存知の方も多いでしょう。

 舟越保武は、非凡な文才の主でもあり(自著『巨岩と花びら』は日本エッセイストクラブ賞)、この殉教者像についての作意や感懐も語りました。例えば「26殉教者像の制作を終えて」(下記N)には、「私は二体だけを除いてあとは全く同じ姿勢に統一した。合掌して天を仰ぐ形は、その下に立って見上げる人に最も美しく見えるように考慮し、そのことに苦心した。さきの2体というのは聖ペドロ・バプチスタと聖パウロ・三木である。この2体は観る人の方に、つまり下の方に視線を向けている。これは観る人と視線が合うことによって、その人の心を上の方に引き上げてくれる役割をしている。26体を人間の身体にたとえるならば、この2人はその眼に相当するものである。」「観る人が中央の下に立ったとき、左右の像の視線は、順々に外側にひらいて見える。こうして天の拡がりを感じさせる方が優れていると考えた。」とのように作意を説きつつ、それと同時に「除幕式を終えて天草へ行き、そのまま東京へ帰る予定だったが、どうしても、もう一度像を見たくなって、また長崎へ戻った。そのときは雨が降っていて、彫刻は雨にぬれていた。3人の少年の顔に流れる雨滴が私の心に焼きついてはなれない。これ程に去り難いものとは思わなかった。」と胸中を打ち明けています。彼は後年、幾度も記念像に纏わる夢を見たこと、また記念像の前に腰掛けこれを目に焼き付けたこともあった、と述懐しています(下記L)。

 舟越の回顧は、遠藤周作との対談(下記O)の中でも語られています。舟越の言葉をごく一部摘記してみましょう。まず制作を始めるにあたって「〔委嘱されて〕はじめはひどく荷が重いと思いました。それにね、大浦にある油絵の二十六聖人の処刑図がありますが、それをそのままレリーフにしろと言われましてね、どうしようかと思って迷いました。というのは、油絵のような平面的なものをレリーフにしたって効果がないですよ。で、うまい口実を考えましてね、私は殉教した人々を作るのはいいが、槍でついている処刑役人など作る義理はない、と。」「ひとりひとりについての資料ですね。いろいろあるけれども、ルイス・フロイスの記録がいちばん基礎の資料として役立ったし、それからドイツ人のチースリック神父からの助言があったので助かりました。〔下絵なども〕行李にいっぱいくらいあるかな。」といった舞台裏の話。そして「あの作品は、海のほう、真南を向いていましてね。真南というのは、いちばん彫刻にとってはいい条件で、朝から夕方まで太陽が動く間、顔にできる影が少しずつ変わって、表情が少しずつ変わるんです。ですからあそこの写真をとってきた人が、私に見せると、写真をとった時刻がすぐわかるんです。」と、これは鑑賞する側の参考になりそうな話。また、「あの時代のこと、詳しくは知らないのですが、日本にキリスト教が入ってきたばかりの時の信者の熱心さは、現代のそれとはまるでちがうほど強いでしょう。自分がそうでないだけ、余計に想像をかきたてられます。そういう、敬意みたいなものが、まずありました。ともかく自分にはとても達しられない境地だと。」という畏敬の念……。 舟越は、2002年2月5日に帰天しました。この日は、奇しくも二十六聖人の殉教記念日で、長崎では毎年記念像の前で「二十六聖人殉教者記念ミサ」が捧げられます。また、この記念像とその制作過程に描かれたデッサンは、多くの人に愛され、採り上げられました。そのうち1997年の二十六聖人帰天400年記念「舟越保武の世界展」にちなむ『日本二十六聖人殉教者への連祷』(1999年刊)は、異彩を放っています。

 なお、近年カトリック初台教会に寄贈、設置された「十字架の道行」も、舟越のカトリック信仰に根ざした作品の好例です。彼は、仙台市のカトリック元寺小路教会で制作した感懐として「聖堂の中の厳かな空気に圧され緊張し切って夢中で彫りつける線の一つ一つは、私のものではない。神の御手が私の手に添えられているのだ。」(下記Q)などと語っています。これは、彼の全身全霊の向かうところが何処であったかを如実に示す言葉でしょう。  こうした2人の芸術家・信仰者の言葉は、いずれも単に作品の作意や鑑賞方法を語るのみではなく、 遙かに読者に対する内面の示唆に富んでいるようです。


4. 「二十六聖人」を辿る

紙幅が残り少なくなりました。まず忘れ得ないことですが、教皇ヨハネ・パウロ2世も、1981年にこの西坂の殉教地を訪れておられます。また、「二十六聖人」を心身で体感するような事例を1つ挙げましょう。それは、『カトリック新聞』2005年1月16日号「扉をあけて」欄に紹介されている、京都から長崎までの二十六聖人の道行を辿る巡礼グループ「長崎への道」による徒歩の旅です。これには老若男女の参加を得て四半世紀に及んでいるということです。

上述しましたように、二十六聖人については、殉教から400年以上を経た今日も、時空を超えて接することができます。それは、神さまのお導きの下、沢山の方々の信仰表現と真心によって支えられてきました。二十六聖人をはじめとして、彼らをさまざまな方法で伝えた人たちの信仰とその表現、主の御受難と幾多の殉教・迫害、私たち自身の信仰と福音宣教などに、暫しのとき心を向けてみては如何でしょうか。

○主な典拠文献=@結城了悟著『長崎への道 日本二十六聖人』/A同監修『日本二十六聖人記念館』/Bキリシタン文化研究会編『キリシタン研究』第八輯(日本二十六聖人列聖百年記念特集)/Cルイス・フロイス著、結城了悟訳『日本二十六聖人殉教記』(付「聖ペドロ・バプチスタの書翰」)/D松崎実著、入江浩現代語訳『現代語訳・切支丹鮮血遺書』/E「特輯 日本廿六聖人」(『シネマ王国』1931年9月号)/F小崎登明著『十七歳の夏』/G同著「日本二十六聖人列聖百年記念祭」(『聖母の騎士』1962年7月号)/H片岡千鶴子・片岡瑠美子編著『長崎と日本二十六聖人殉教者』/I永富映次郎著『日本二十六聖人殉教記』/J長谷川路可著『長谷川路可画文集』/K村上光信著『ザビエル巡礼ガイド 鹿児島編』/L舟越保武『巨岩と花びら』/M舟越保武展実行委員会編『信仰と詩心の彫刻六十年 舟越保武の世界』/N藤本四八撮影『長崎26殉教者 舟越保武作品集』/O遠藤周作・舟越保武対談「日本人の生活とキリスト教 個性による仕事と、無名の仕事」(『あけぼの』1984年6月号)/P高橋睦郎著『日本二十六聖人殉教者への連祷』/Qドン・ボスコ社編集部編『聖母マリアとともに歩む十字架の道行 彫刻舟越保武』/Rピーター・ミルワード著、関栄一訳『教皇の日本巡礼記』/S「扉をあけて」(『カトリック新聞』2005年1月16日号)

(文責 N.N)