新しい年を迎えて 
―暦の話、お正月の話―



 唐突ですが、昨年最も話題になったテレビドラマに、韓国ドラマ「冬のソナタ」を挙げる方は、少なくないでしょう。その第2話の中で、大晦日の夜から新年を迎えた瞬間、天空を花火が彩ったシーンがありました。そこに隣国の風習を垣間見た気がしましたが、こうして皆で新しい年に期待を込めてお祝いするためには、共通の「暦」が必要です。そこで、年頭にあたり、私たちの生活と密接不可分の暦やお正月について、歴史を少し繙(ひもと)いてみましょう。




(1) 1月1日生まれの教皇グレゴリウス13世と改暦
 今年は西暦2005年ですね。この西暦とは、「グレゴリウス暦」(グレゴリオ暦とも称す)のことで、現在世界中のほとんどの国で用いられている公用暦です。これは、1582年2月24日にローマ教皇グレゴリウス13世(1502〜85、在位1572〜85)が大勅書によって宣布した「ローマ暦」です。何と、この教皇は1月1日生まれで、こうした歴史的な改暦に何となくぴったりの誕生日だと、思わず微笑んでしまいます。

 この改暦までは、教会では古代ローマ帝国以来のユリウス暦という暦法が使われていましたが、これは自然年に対して約130年で1日の誤差が生じ、この16世紀には誤差が10日分に至ったため、復活祭のような移動祝日が、不正確になってしまいました。したがって、これを是正するためにトリエント公会議(1545〜63)での改暦要請、決議を受け、グレゴリウス13世が1572年に設けた改暦審議委員会を中心として作業を進めた結果、1582年10月4日の翌日を15日とすることでスタートしました。

 それでは、改暦で何が変わったか。ここでは細かい数字の話は一切割愛して、閏年(閏日)をどのように変更したかを記しておきます。暦を自然年に限りなく近づけるには、400年間に閏日を97日設けるというのが基本です。しかし、ユリウス暦では単純に4年に1回の閏年、400年間に閏日100日でした。そこで、グレゴリウス暦ではこの閏日100日から3日減らすために、100で割り切れて400で割り切れない年(例えば1900年)は閏年にしないというルールを導入して解決したという訳です(こんなに簡単に書くと有難味がなくなりますね)。 因みにグレゴリウス暦は、教皇の発令であったためにヨーロッパのカトリック国などでは1583年までにほぼ導入されました。しかし、それ以外では、例えばプロテスタント諸国が18世紀以降にこれを導入するなど、対応には長い歳月がかかりました。日本では、明治5年12月2日(陰暦)の翌日を1873年(明治6年)1月1日として改暦されています。




(2) 教皇グレゴリウス13世と天正遣欧使節
 グレゴリウス13世と言えば、日本人と無縁でないことも、忘れてはなりません。それは、まさに波濤万里、ヨーロッパを訪問した天正遣欧使節(伊東マンショら少年4人。1582年出国、90年帰国)に対して、 1585年3月23日に教皇が謁見を賜ったことが挙げられます。当時の記録『デ・サンデ天正遣欧使節記』を見ると、「(教皇が)ご自身の御足もとに近づくわれわれ(=使節)をご覧になるや、いとご丁寧に、あたかも実の父であらせられたかのような御心でわれわれを抱擁せられ」「われわれの平安を祈っての聖なる接吻を賜い、ご感激のあまり御涙をさめざめと流されて、ご心中のご感動を隠しもあえぬ御有様であった」などと使節が語っています。かようにグレゴリウス13世の歓待振りが殊の外盛大であったことに伴い、使節は新教皇シスト5世の戴冠式にも参加を許され、ローマ市民権証書を供与されたほか、訪問各地で熱狂的な歓迎と、日本に対する多大な関心とを引き起こしました。そして、彼らはさまざまな知識や技術を身につけ、ヨーロッパを後にしました。

 さて、この使節とお正月の話ですが、彼らが帰国する前年(1589年)1月、マカオでイエズス会司祭メレルが彼らの様子を書き記した書翰を見てみましょう。そこには、使節が「色々の楽器を弾くことを習い、比較的上手に演奏するので、割礼の祝日(一月一日)の夜、私達は皆、我等の教会に集まって彼らの快い音楽を聞いて楽しみ、慰められました。一人はアルパー、一人はクラヴォ、もう一人はラウデ、他の一人はラベカを弾いていました」云々と記されています。彼らはこうして新しい年を祝ったようです(この記事は、1591年3月に彼らが京都に至り、豊臣秀吉の前で持ち帰った西洋楽器を演奏したシーンをも想起させます)。




(3) 1月1日……神の母聖マリアをお祝いする日
 1月1日は、キリストの御降誕から8日目であり、主が割礼を受けられた日にあたるので、かつてのカトリック教会では11世紀からそれを記念しつつ、クリスマスを祝う最終日としていました。前掲の書翰にもそのことが見受けられます。

 一方、日本では1月1日を新年の祝日(元日・お正月)として祝う習慣が長く続いています。こうした違いを重く見た南蛮時代の宣教師たちは、日本人がお正月を祝う伝統を保ちつつ、1月1日を「御守りのサンタ・マリア」の祝日として聖母マリアへの信心を涵養するように配慮しました。このことは、当時のキリシタンに歓迎されたということです。やがて1865年3月17日、まだ幕末の禁教下ですが、250年もの苦難に耐えた浦上キリシタンたちが献堂間もない大浦天主堂を訪れ、プチジャン神父に向かって「サンタ・マリア御像はどこ?」(神父は、その翌日附ジラール教区長宛て書翰に、ここだけ「Santa Maria gozo wa doko ?」とローマ字表記の日本語で書き留めました)と尋ねたのも、こうした歴史の流れを踏まえると、静かに胸に迫るものがあります。

 なお、教皇ピウス11世が教会の暦を変更し、1月1日を主の割礼の祝日から神の母聖マリアの祭日に改めたのは、1931年のことです。




 ここで付録ですが、拙文を締め括るにあたって、100年前のカトリック神田教会で開かれた新年会に関する記事を紹介しておきましょう。 『声』1905年2月号の「教界彙報」には、次のように簡単な記事があります。
「▲聖体会の新年親睦会 神田公教会信徒の団体なる聖体会にては、去る廿二日第四主日の午後猿楽町教会内にて月次例会に引続き新年親睦会を開催し、会員一同抔盤の間に各胸襟を開いて快談し、八時頃に至りて散会せり」

○ 主な典拠文献
 @八木谷涼子著『キリスト教歳時記』
 A土屋吉正著『暦とキリスト教』
 B新カトリック大事典編纂委員会編『新カトリック大事典』
 C泉井久之助ほか訳『デ・サンデ天正遣欧使節記』
 D結城了悟著『天正遣欧使節―史料と研究―』
 E松田毅一著『天正遣欧使節』/Fロペス・ガイ著、井手勝美訳『キリシタン時代の典礼』
 G純心女子短期大学長崎地方文化史研究所編『プチジャン司教書簡集』
 H片岡弥吉著『長崎のキリシタン』
 I『声』1905年2月号(第327号)

(文責 N.N)